miscellanies

高桑純夫の 解説において 示唆された、こうした 二重の要請に 答えるものに、真下信一の 『思想の現代的条件』 がある。 それは ルカーチの 著書に 劣らず polemic だ。
真下信一は そこで、ルカーチに 対し 1つの 異義申し立てを 行なう。

ところで、ルカーチは 「寄生者的主観主義の聖灰水曜日」 の哲学者として ハイデガーと ヤスペルスを 一括し、両者の 相違は ただ 同じ ニヒリズムが、「宗教的無神論者」 である 前者にあっては たしかに ラディカルであるが、後者にあっては 相対主義的に とどまること、つまり、前者に 対する 後者の 不徹底、中途半端にあるに すぎぬとする。

それゆえに、ルカーチによれば、両者が 人間として ナチズムに どう 対したかは、どちらも 自身の哲学を 裏切って 現実に ヒトラーに 刃向かって 出るということは なかった以上、「ほとんど どうでもよいこと」 であり、「ハイデガーが 公然と ファシストとして 登場したのに たいし、ヤスペルスが 私的な理由から そこまで いけなかったということ (中略) は 根本的な 事態を いささかも 変えるものではない」 ことになる。

この ルカーチの 断定に 対し、

しかし 私には この ルカーチハイデガー論は いささか 甘く、ヤスペルス論は 粗きにすぎて 到底 うなずけない。

うなずけない 理由を 2つだけに 限っていえば、まず、ハイデガーの思想は いかなる 意味においても 理性の哲学では ないが、ヤスペルスの それは (ヨーロッパの) 哲学的伝統を 踏み、神を もち、超越と 理性の 哲学であろうとする。 この側面を ルカーチは すなおに 見ない。

そして、ヤスペルスの 戦時の日記に もとずき、

次に、一般に 直接的には 「私的な」 ことに 由来すると みえる 個人のあり方と いうのも、じつは それほど 彼の 思想にとって 外的なものでも 偶然的なものでも なくて、ことに ヤスペルスの 場合のように 配偶者の 関係を (注) 意味する場合、ある特定の 私的事情は、彼の まさに 生きた思想によって 作られ、逆にまた 思想を 作るという 面を もつものである以上、人間の思想と 内的に 深く かかわっていることを よく見る 必要があると いうことである。

(注) ヤスペルスの妻、ゲルトハートは ユダヤ教徒であり、彼らは 「ユダヤ人と ドイツ人を (互いに) 差別しない 信念をもって ... 運命共同体を」 つくりあげていった。

真下信一が これほど 真摯に ルカーチに 対峙するのは、1つには アンナ・ゼーガースの 告白に あるように、ルカーチ

わたしは かれのように、その 書いたものを 読むときに、その人と 論じあいたいという 強い願望を かきたてられ、その人が 身近に ありありと 感じられるような

そういう 書き手 = 哲学者で あるからだろう。
そして、真下信一は、困難な 哲学上の 2つの 要請に 答えるべく、ファシズムに 対抗して 書かれ、その多くが 『理性の破壊』 に 取り入れられた 『運命の転回』 の その書名にもなった 論文 「運命の転回」 からの 引用を 行なう。