miscellanies

ハンガリヤの マルクス主義哲学者 ルカーチは、アリストテレス以来の ドラマ作法の 根本概念の 一つとして ペリテイアを とりあげ、次のように 言う。

ここで 真下信一は、ルカーチを 引用するにあたり、自身の 旧訳を 改訳し、ぎりぎりまで あいまいな表現を そぎ落としている。
では、ルカーチナチス壊滅前夜 - 1944年 - に、ドイツの現状を 目のあたりにし、そこから 引き出した 省察とは どういうもので あったのか?

ペリテイアとは、悲劇的急転の ポイントであり、ドラマの運び、主人公の行為の 頂点であるとともに、中心人物と 悲劇的運命との 連関と矛盾とが まざまざと 目に見えてくる ポイントのことである。

アリストテレスは このペリテイアを 同時に 認識の場たらしめる。 認識の場とは、そこで 「無知から 知への 急転」 が 主人公のなかで 生じる シーンのことである。

(そして 近代劇においては) ドラマ形式の運びは 本質的に 一つの 分析なのである。 すなわち 平日の うわべの まやかしと ごまかしから 本質を 剥ぎ出すことなのである。

だから、最後に 結果として あらわれるものは 客観的現実のなかに 現に とっくに 存在しているわけであって、筋の運びは、本質を 覆いかくしているもろもろの 外皮を めくりとると いうだけである。

実生活の できごとというものを みるならば、この形式のうちに、歴史的経過というものの 一つの 深い真相が、凝ったかたちで シンボライズされていることが わかる。

ある一定の 意味においては われわれは、ヒトラーという 現象が 何を あらわしているかを 常に 承知していた。

しかし 今日になって わかることは、これらの 事柄についての われわれの 知識が 不十分であったことである。 その不十分ということは、(彼らの) 非行の ことごとくを われわれが 知っていたのでは ないかぎり、量的な 意味において 言えることは もちろんであるが、単に それだけでなく、ヒトラー主義の 本質に かんする われわれの 知識についても また、言えることであった。

ドイツ国民の 中毒の深さ、この機構の 隅々までの 悪魔性、それに われわれは 改めて 目を みはらせられたのである。

この戦争の 世界劇は 一つの イプセン的経過を たどった。ヒトラーの うつ 一つ一つの手が、過去における 彼の活動の 本質をも あばきだしたからである。

それにも かかわらず、ナチス親衛隊の 皆殺しキャンプ (強制労働収容所) ... での 「出来事」 は ヒトラー主義の 「一つの ペリテイアであった」。

そして ナチス壊滅の年、人類史上 初めて 原子力兵器が 使われ、「大日本帝国」 は 「崩壊」 する。