miscellanies

オルグルカーチには polemic な 著作が いくつかある。 戦前では 『リアリズム論』、戦後すぐの 『実存主義マルクス主義か』 が よく知られているが、54年に 発表された 『理性の破壊』 も その 1つだ。
刊行されたのは 戦後だが、ファシズムへの 抵抗という 目的のため 「まだ 彼 - ヒトラー - が 権力を 隆々たる 勢威とを もっていた 時代に (実際の 叙述は) はじめられた」。
その 日本語訳に、高桑純夫が 解説を 書いている。

ルカーチの 基本的態度を 表明する もっとも 毅然たる 言葉は 「哲学の本務は、理性を 破壊する 一切のものに たいして 理性を 擁護するにある」 である。

読者は この言葉を、これまで 多くの 哲学者によって 語られた さまざまな 哲学本務の 定義と 比較されるがよい。 動揺と 混乱の ただ中にあった 定義が、ここで 最終的に 決定されたという 感じを 禁じえないであろう。

哲学以外の 一切の学は、理性のなかで、理性の 助けをかりて 活動するが、理性そのものの 強化 もしくは 防御については、何ごとも することが できない。 ただ 哲学だけが この課題を 引き受ける。

哲学の本務に たいする まったく 新しい 自覚というを 妨げない。

だから 哲学が、理性に くみする 態度をとるか、反する 態度をとるかは、哲学の 哲学としての本質を 決定するのみならず、社会的発展の うちにあって、それの 役割をも 同時に 決定する、と ルカーチは 考えるのである。

非常に dynamic な 解説だ。 そのことは、例えば、『ルカーチ著作集』 に 載っている 訳者の 1人、暉峻凌三の ドイツ哲学の 研究者らしい static な 解説と 比較すれば、瞭然である。
誤解しては ならないのは、高桑純夫の この解説が、単に その時代 - 1950年代末 - からの 要請、すなわち 当時の 日本の 反動化の 兆候に 対抗して 書かれていると いうだけでは ないことだ。
つまり、高桑純夫による この解説は - 同時に - ルカーチが 当時 新しく ヨーロッパ各地で 台頭した ファシズムへの 抵抗という、その著述の 内容に 即して 導きだされた 結論でも あるのだ。
こうした 二重の要請 - 1つは 原著者による ドイツへの、そして 1つは 現代の 日本の 状況への - は 高桑純夫から 他の 哲学者たちへと 継承されただろうか?
最初の反応は 素早かった。 高桑純夫に 近しい 真下信一、藤野渉、竹内良知の 手で、ルカーチファシズムに 抵抗して 著した 時論集 『運命の転回』 が 数年のうちに 翻訳された (そのうちの 多くは 『理性の破壊』 に 取り入れられている)。
しかし、当然だが、こうした 哲学上の 要請に 答えるには - それが 本質に かかわるだけに - 困難さを ともなう。
それは - 25年の 後に - 『運命の転回』 の訳者の 1人、真下信一によって 試みられた。