miscellanies

[Paul Robeson]

社会主義を 空想から 科学へ 転回させるための 第一の 鍵は、これら (人民の) 反乱や 暴力のなかに なにか 秩序を かきみだす 突発的な 異変を みることでは なくて、むしろ そこにこそ 人間社会を つらぬく 固有の原理を みぬくことに なければ ならない。

それらの あからさまな 事実を、われわれの 主観的な 先入見や 理想によって 評価することでは なくて、それらの 事実を 固有の原理に したがって 探求することに なければ ならない。

- 古在由重

Paul Robeson と Malcolm X との 間には、世代の 違いもあり、直接的な 交渉は ない。 しかし 「人間社会を つらぬく 固有の原理」 を 見抜くことに 努め、それに したがって 現在の U.S.A. が 置かれている 「あからさまな 事実」 を 自ら 「探求」 したという、この 2人の 共有する 基本的な スタンスに 立ちかえれば、それぞれが 探り当てたものは 限りなく 近いと 考えられる。 それは 意外でも 驚くべきことでも ない。
Paul Robeson をして、Malcolm X の dynamic な 思想を 語らせてみよう。

[アフリカの 発見]

世界の 出来事についての 私の 見方が できあがったのは、主として ロンドン生活に おいてであった。 その間、私は イギリスの 各地の 民衆の間に 暮らし、ヨーロッパ諸国にも たえず 往来した。

私が ニ、三の 見解において、私と 同じ 黒人一般と 異なることが ある 理由を 理解してもらう 鍵は ここにあると 思う。

私は アメリカで 歌手として また 俳優として 世に出たのち、ほかの 黒人芸能人と 同様、舞台で 働くために 外国へ 渡った。

アメリカでは 今日でも (1959年 当時) 黒人の アーティストに 開かれる 門は 狭いのであるから 30年前は その何倍も 悪かった。

ニ、三度 海を こえて 往復した後、私は ヨーロッパに とどまり、ロンドンに 定住することに きめた。

イギリスで 私は 成功した。 舞台で、また 映画で、あるいは 歌手として、ポピュラーな レコード・アーティストとして、大いに 売り出したことは さいわいだった。

もっと 感激したことは、イギリス社会が 私を 心から 歓迎してくれたことである。

私は 幸福であった。 そのころ 私に 「ジム・クロウ」 の 国 アメリカに 帰れと いうものが あったとしたら、頭が どうかしているのでは ないかと 思ったであろう。 帰れ? いったい、何のために?

ロンドンは 大英帝国の 首都であり、そこで 私は アフリカを 「発見」 することに なった。

その 「発見」 は それからの 私の 一生に 大きな 影響を あたえ、私は イギリスに 帰化して 暮らすことを 思いとどまった。

私は 自分を アフリカ人だと 意識するように なったのである。

アメリカ黒人の 大多数と 同じく、私は 私の 父祖の国 アフリカについて ほとんど 無知であった。 が、イギリスへ 来て、たくさんの アフリカ人に 会った。 その中の 何人かの 名は、いま 世界的に 有名に なっている。 エンクルマ、アジキウエ、それから ケニヤで 牢獄に つながれている ケニヤッタ

彼らの 多くは 当時 まだ 学生で、私は よく 何時間も 彼らと 話しあったり、「西アフリカ学生同盟会館」 で 彼らの 運動に 参加したりした。

彼らは 私を 同胞だと 思い、私の 成功を 誇りに 思ってくれ、私と 妻とを その同盟の 名誉会員に してくれた。

この学生たちの 多くは 上流階級 出身であったが、そのほかに また 別の 階級の アフリカ人とも 友達に なった。 ロンドン、リバプールカーディフなどの 港の 船員たちである。

彼らも また 組合を 組織していて、私は そこで 彼らの 生活や 彼らの 多くの 種族について 知識を えた。

Malcolm X は どうか? 彼は メッカへの 旅の後、二度、アフリカを 縦断している。
独立を 果たした アフリカ諸国の 元首たち -- そこには アジキウエや ケニヤッタも いた -- と 会談し、U.S.A. 政府による 妨害工作にも かかわらず、カイロでは 植民地の 独立運動の 指導者たちとの 討議にも 加わった。
そして 帰国後、Malclom X は 1人の African American として 「コンゴ侵略を 告発する」 集会を 開いている。

[黒人自身による 行動]

「いつの日まで、おお 神よ、いつの日まで?」

抑圧された 民族の この昔ながらの うめき声は、近ごろ 黒人新聞の 社説に たびたび あらわれる。

「いつの日まで?」 答えは -- われわれが それを 許している限り! である。

私は あえて言う。 黒人の行動が 決定的で ありうると。 また、この恐怖に 止めを さし、国中の 黒人に 平和と安全とを かちとるための 実力は すでに われわれの手に あると。

この事実の 認識は、われわれの 行動の 計画に 新しい力と 勇気と 決断とを もたらし、目標の 達成のために 新しい 戦闘力を 生むであろう。

[まず 数の力を]

1957年 5月 17日、(リトル・ロック事件の) 最高裁判決 3周年に あたって、「自由のための 祈願行進」 を ワシントンで 催したのは すばらしい 考えであった。 この行進に 集まった 数千の 人々は、強い 連帯感を ふきこまれ、演説によって 深い 感銘を 受けた。

しかし、同時に、全国的動員としては、その規模において 黒人大衆の 数の力を 反映していず、失望の感を 与えた。 集会が おわったのち、指導部の 幹部たちが 準備を サボっていたという 非難が たびたび 新聞に あらわれ、また はげしく 否定されたりしたが、それを いまここで 論じても 何ら 建設的な 意味を もたない。

だが 私が 言いたいことは、今後 ふたたび このような 動員を 行なうときは -- また 3年 たつのを 待たず 行なうべきであるが -- われわれが みな 足なみを そろえて、何万どころでは なく 何十万の 示威行進に したてあげ、われわれが 本気であることを 示さなければ ならないことである。

そして、ただ 演説を きいたあとで おとなしく 家に 帰ると いうのでは いけない。

我々の 代表は、ホワイトハウスや 議会に 出かけ、黒人大衆の 力を バックに、行動への 要求を 提出すべきである。

そして 彼らは ふたたび 会場へ ひき返して 会衆に むかって、「彼」 が 何と 答えたかを 報告し、会衆が それに 満足したか どうか、ついで 何を なすべきか、を 決定できるように しなければ ならない。

1963年の ワシントン大行進の際、ワシントンに 到達する 直前に Maltin Luther King Jr. ら 黒人指導者が そのイニシアチブを 簒奪し、この示威行進に 参加した 黒人大衆をして 「ただ 演説を きいたあとで おとなしく 家に 帰」 らせ、ホワイトハウスに その要求を 突き付けなかった、として Malcolm X は 彼らを 口を極めて 批判している。

[組織としての 力]

つぎに、組織の力 -- 数の力も ひっきょう これを 通じて 発揮される -- であるが、これこそ また 黒人大衆の 一つの 威力である。

アメリカ社会で、黒人社会ほど 強く 組織されている 分野は すくない。

ある人は、黒人には 組織が あまりにも 多すぎると いう。 たくさんの 異なった 教会、たくさんの 宗派、多すぎる 友好団体、クラブ、協会 ...

が、これが 実状であり、それを いまさら 嘆いても 意味は ない。

大切なことは、黒人も よく 団結できるし、集団的な 努力によって りっぱな 仕事を なしとげてもいる、という 意味ぶかい 事実 -- 世間では よく それを 否定するが -- を 認識することである。

[大衆運動の 必要性]

もっとも、民族の 幸福を 心の底から 願っている 純粋な 人物で ありながら、黒人の 大衆行動を 制止することが 指導者の 義務だと 真剣に 思いこんでいる 人もいる。

彼らは 指導者だけが おだやかに 折衝を つづけることが 最善の結果を 生むと 確信している。

それで、何事か 起こって、大衆が 立ち上がり、正当な 怒りをもって 戦闘的行動の 開始を 要求するときには、彼らは これに なんとかして 水を かけるのに つとめようと するのである。

むろん、われわれの 権利のための 折衝を 行なうことは 大切である。 が、折衝者が 戦闘的な めざめた 大衆を 背後に ひかえていない ばあいには、いくら 真剣に 訴えても、ほとんど 効果は ないものである。

黒人の 行動が 有効で、かつ 決定的な力を もつためには -- それは 大衆行動でなければ ならない。

投票の 威力が 発揮されるのは、投票する 大衆が 共通の 綱領によって 結びつけられている ときだけである。

黒人の 半分が 右に、他の半分が 左に、というふうに 投票したのでは、何事も なしとげられないのは、自明の理である。

なるほど、個人個人の 票は 投じられ 数えられる。 が、集団としての 力は ドブに 投げすてられてしまうのである。

大衆行動こそ -- 政治においても、他の 部門においても -- 黒人の力の 真の 発動であり、勝利への 道である。

[統一行動]

黒人社会の すべての グループに たいして 私が いま 言いたいことは、われわれの 組織の力を 十分に 発揮する 鍵は 統一行動の 考え方である。

現在ある たくさんの 団体を、われわれ 共同の 闘争を 計画し 実行するために、一本に まとめることである。

黒人の すぐれた ジャーナリスト、カール・ローワンは 最近、ラジオで 同問題について インタビューを うけて、こう 答えた。

「この国の 黒人は、みなが 声を 一つにして 叫ばない限り、永久に 自由には なれない、というのが ロブソンの 主張です。 そして、その一つの声というのは、ロブソン自身の声に 近いものでなければ ならない、と あきらかに 彼は 考えています」

けれども、じつは 私は そう 考えては いないのである。

われわれの 叫ぶべき その一つの声は、すべての 黒人にとって もっとも 重大な 中心課題であるところの、自由と平等への 権利についての、全黒人の 思想の 表現でなければ ならない。

それ以外の 多くの点では、われわれの 間に 意見の 相違が あり、それゆえ、特定の 個人や グループが 黒人全体を 代弁することは 不可能である。

われわれは 数の力について 大胆な 見方を しなければ ならないと 同様に、組織の力という点でも、幅の広い 考え方を しなければ ならない。

われわれの たたかいの 目標は、すべての 人々の 目標でもある。 だから、その目標に 到達する 方法も、すべての人々が 参加できるようなもので なければ ならない。

[指導者の資質とは 何か]

この問題を 論ずるのに、私は 人物論を さけよう。 指導者に たいする この種の 批判は 黒人大衆自身によって 行なわれる べきである。

だから、私は ここで 個人を あげつらうことを やめて、もっぱら 問題の 原則を 論じ、今日 要求されている 判断の基準と 指導力の性格とを 考えよう。

私の いう 指導の 観念は、新聞紙上で 有名だとか、個人的な 成功とか、官憲に 受けがいい、などと いうのとは まったく 関係が ない。

私は ただ 黒人の 権利のための たたかいにおける 黒人の指導を 考えているだけである。

私の 見るところ、黒人指導者たちの そなえるべき 第一の 資質は、民族の 幸福のための ひたむきな 献身である。

黒人も 個人としては、他の 人たちと 同様、人生について いろいろの 興味を もつであろう。 しかし、いやしくも 指導者たるものは、自分が 指導している 大衆の 利益に 他のすべてを 従属させなければ ならない。

もし 今日、アメリカ黒人が、他の 国々の 有色人種たちの 進歩に 立ちおくれていると いえるならば、その基本的な 原因は、この国の 黒人指導者たちが、他の 植民地解放闘争の 指導者たちの 特質である、あの 大衆の幸福のための 自己犠牲的な 熱情を 往々にして 欠いていることに ある。

自由の中に 生きるためには、そのために 生命を 捧げる 用意が なければ ならない。

そういう 最高の 犠牲を 求められるものは、かりに あったとしても、われわれの中の 少数に ちがいないが、それにしても 苦しい 戦いの 中では 最前列に 立つものが もっとも 残酷な 打撃を うけるという 事実だけは 忘れては ならない。

戦闘の 試練に 直面する 覚悟の ないものは、けっして 味方を 勝利に 導くことは できない。

(指導者の 特質の) 他の 一面は 独立である。

黒人の 効果的な 指導は、黒人大衆の 意志以外のものの 支配に たよったり、責めを 負ったりしては ならない。

黒人の 運動は 黒人によって 指導されなければ ならない。 それは 名目や 地位の上だけでは なく、実質的に、そうでなければ ならないのだ。

なぜならば、黒人以外の グループは、いかに よき意志を もっていたにしても、黒人の 利益を 一義的に 考えることは ありえないからである。

今日では、黒人の 進歩のための 希望だと いわれるものは、北部の 支配層のなかの 自由主義的な 分子による 善意である。

多くの 黒人指導者たちは こうした考えに もとづいて 行動したり、行動しなかったり する。

彼らは "White is right". という 考え方は うけつけないが "Might is right". というかたちで こうした 考え方の エッセンスだけは のみこまされて いるのである。

このような 発想が 勢いを えている限り、黒人の 指導者は 独立を 欠き、それゆえに また 無力でもある。

(追記) 一部、訂正。