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ウェブ進化論 (4) http://facta.co.jp/blog/archives/20060307000098.html
World Economic Forum について 触れているのを 読んで、リチャード・セネットの - 少し 混乱しているが - おもしろい本のことを 思いだした。
それでも新資本主義についていくか―アメリカ型経営と個人の衝突

過去を 手放す 才能、分裂を 受け入れる 自信 - ダボスに 集まった 新資本主義に 精通する 人びとの あいだに 見られたのが、この 2つの 人格特性であった。

それらは (企業家としての) 自発的行動を 鼓舞しうる 特性であるが、ここ アルプス山中の 会場では、(せいぜい) よくて 倫理的に 中立のものである。

(つまり、第三の要素として) 自発性を 喚起する こうした 人格特性は、フレキシブル体制の 底辺で 働く人たちには 自己破壊的なものと 化す (からである)。

フレキシブルな 力の システムを 成り立たせる (これらの) 3つの要素は、それを 規範 standard として 労働に いそしむ 普通の従業員の 人間性を 腐食させる。(p76)


「だれが 私を 必要とするのか」 - 今日の 資本主義の 苛酷な 挑戦に 遭難した (人々の) 人間性への 問いである。

今日の 資本主義制度は 社会に 無関心を 広げる。 この無関心は、リスクに たいする 報酬が ほとんどない 「一人勝ち」市場に 置かれた 人間の 奮闘の 結果として 広がってくる。(p210)


私は ダボスで、フレキシブル王国の 支配者たちに 耳を 傾けているときに、ピンと くるものが あった。

彼らにとっても "われわれ We" は 危険な 代名詞なのである。 彼らは 企業家精神的な 無秩序を 心地よい 住みかとするが、組織的な 対決は おそれる。 もちろん 労働組合の 復活を おそれている。

(そして) もし、彼らが よく言う 「ついて来られない」(圧倒的多数である) 人たちと 議論しなければならない 場面になれば、不快な 個人的感情を あらわにして 落ち着きを 失うか、そっぽを 向くか、メモ取りに 逃げるしかない。(p212-213)


ダボスで もてはやされる フレキシビリテイは、普通の 生活を 送る上での 手本には ならないし、なり得ない。

(彼らに 代表される) 新しい 時の司(つかさ)は、古い英語の 意味での キャリア carrier、すなわち 人が そこを たどって 旅する 小道 path を 拒否してきた。 (人びとが たどる) どこまでも続く 長い 道のり journey は、彼らには 無縁の 領域 area なのだ。(p213)


Google は ともかく、ビル・ゲイツは あいかわらず 暴走しているようだ。