miscellanies

[フィリピン語の「悲劇」]
梅根悟の 著した 『世界教育史』 には フィリピン語についての 直接の 記述は ない。 しかし そこには フィリピンでの U.S.A. の 言語政策が 詳細に 記されている。

植民地における 原住民教育の 歴史は、植民地化した 地域 そのものの 歴史・地理的な 性格と、その 領有者となった 国家の 国情・政策との 関係によって、さまざまで あるが、大まかに いうと、それは 産業革命以前と、それ以後の 二段階に 分けて 考えることが できる。

しかし、産業革命の もたらしたものが 植民地政策のうえに、 はっきり あらわれるように なったのは、帝国主義段階においてで あったから、むしろ、帝国主義以前と 帝国主義の 2つの 段階に 分けて 考えて いい。 ...

帝国主義以前の 段階での 植民地の 原住民教育の 政策は、一言で いえば、放置政策で あったと いうことが できる。 あるいは、それは、学校教育以外の 方法、とくに 宗教的伝道という ルートによる 原住民の 同化政策キリスト教徒化政策の 時代であると いうことが できよう。 ... いたるところで 教会が 原住民の キリスト教への 改宗 (すなわち 隷属化) 工作に のりだした。 しかし それ以外には 教育政策らしいものは どこにも 存在しなかった。

フィリピンの 場合

(U.S.A. による) その 教育方針は 徹底的な 同化政策アメリカ化政策で あった。 1898年 8月 13日、アメリカ軍が マニラを 占領すると、軍は ただちに 学校開設に とりかかり、9月 1日には マニラに 7つの 学校が ひらかれ、軍人を 校長、教員とし、さっそく 英語教育を はじめた。

1901年には 学制が 公布され、教育局の 管轄のもとに 全島に 公立学校を ひろく もうけ、視学官を 置いて その 督励と 指導に あたらせることと し、そして 英語を 学校用語とする 方針が 明らかにされた。 英語教育のため 1000人の 教師を アメリカから 送ることが 定められ、実行された。

その後 1903-4年に かけて 教育制度は いっそう 整備され、ほぼ アメリカ式の 公教育制度が うち立てられた。 ... 全島 49県が 約 400 の 学区に 区分され、教育の 実際には、主として フィリピン人教師が あたるが、各学区に アメリカ人の 指導官 (superviser) が 置かれた。

だが フィリピンでの 公教育の 普及は 遅々として 進まず、就学率は 低迷した。 それは なぜか? 梅根悟は その 原因を 帝国主義の 植民地政策に 求める。

アメリカは 工業国で あるとともに 農業国で あって、工業製品を 世界の 市場に 送り出す 必要が あるとともに、農産物も ありあまって 処分に 困っている。 ... つまり フィリピンを 資本主義的に 近代化することは、アメリカ資本主義の 欲しない ところである。 フィリピンは 近代資本主義以前、産業革命以前の 状態に おかれ、アメリカで できない ヤシ油や コプラ、サトウといった 農産物を アメリカに 買ってもらい、そのかわりに、アメリカで ありあまって 困っている 小麦の 消費市場となり、 また あらゆる 工業製品の 消費市場となっていれば、それで いいのであって、フィリピンには 産業革命を 起こしてはならない -- これが アメリカ資本主義の いわば、当然の 打算で あったわけである。

そして それは フィリピンに 対する アメリカの 立場で あるばかりでなく、およそ 帝国主義の 段階での、すべての 資本主義国が その 植民地や 従属国に 対して とる 立場であった。

近代の 大衆 (すなわち 大多数の 国民) 相手の 普通教育制度と いうものは 産業革命の 産物であり、帝国主義国家における 技術労働者と 技術兵士の 大量な 需要の発生によって、はじめて 普及 徹底するように なるものである。

だから そのような 人間の 需要の ないところでは、どんなに 制度を つくり、強制しても、普通教育の 普及 徹底を みることは ない。 そして、これが およそ 植民地というものの 置かれている 事態であった。

(帝国主義と 教育)

インドネシアでは、1965年に CIA が 起こした 大虐殺によって 多くの 学校教師が 殺害され、それを 補うため フィリピンから 大量の 教員が 送り込まれたという 事実が ある。 彼らは 当然、「英語を 学校用語」 と していた。
そして、インドネシアは この後、U.S.A. の 従属国へと 転落するだけで なく、スカルノ体制の 終焉と ほとんど すべての 学校教師 また 詩人、作家が 虐殺 あるいは 投獄されたことから インドネシアの 国語運動は その 後退を 余儀なくされ、同時に U.S.A. の 言語政策に 取り込まれていくことに なる。