miscellanies

[Kwame Nkrumah]
だが、前提が 整うだけでは 「かれらは、自分たちの 姿のとおりに、ひとつの世界を 創造する」 ことは できない。 それは 「滅亡を のぞまないならば、ブルジョアジーの 生産様式を 採用するように 強制」 するため、世界銀行 ないし IMF が その舞台へと 上がることで 完成する。

ガーナは かつて 黄金海岸と 呼ばれ、イギリス統治下の いわゆる "モデル植民地" であったため、イギリスの 植民地政策によって 世界の ココア生産量の 3分の1を 生産し、ココア輸出が そこの 輸出量の 3分の2 を 占める 典型的な モノカルチャー (単作) 経済の ワク組みの中に しっかり ハメ込まれてきた。

ガーナ初代大統領 エンクルマは、かねてより、ガーナの もっとも 偉大な 2つの 資産、ボルタ川の 水力と ボーキサイトの 工業的結合によって アルミニウムの 大量生産、そして 大量輸出を 実現することが できれば、それを テコに ココア依存の 植民地的 モノカルチャー経済から 脱却し、ガーナ経済の テイク・オフ (離陸) を はかることは 十分 可能であると 考えた。 その場合 ボルタ川に 大きな ダム (Akosombo Dam) を 作り、水力発電所を 建設する 事業は、米英両国からの 借款に 依存しながら 国費で 行うが、アルミニウムの 製造は、外資系民間企業に まかせようというのが エンクルマの 方針であった。

(多国籍企業の 1つ) カイザー・インダストリーズ社は、すでに ボルタ川開発計画の はじめから 開発の 専門家を 長期間 ガーナに 滞在させ、エンクルマが イギリスからの 資本導入に 見切りを つけるや 否や、ついに、1960年 ボルタ・アルミニウム会社 (VALCO) の 新設に 成功している。

ポルタ川水力発電所は 1966年 1月 23日 ついに 完成をみるが、同年 2月 24日、ベトナム問題解決の 手がかりと ガーナ工業化計画の 援助を 求めて 北京訪問中の エンクルマ大統領は コトカ大佐を リーダーとする ガーナ陸軍の クーデターによって、一瞬にして 失脚してしまった。

『寡占 - 現代の経済機構』 '72

第三世界において 社会主義政権の 樹立が 企てられ、それが 失敗に 終わったとき、西側の 研究者は 常に そこに 指導者の 急進的政策の 強行と それに 伴う 独裁体制、そして 官僚機構の 腐敗 および その 極端な 非能率という 共通の パターンを 見いだす。 それは インドネシア、イランの モザデク政権、そして ガーナにおいても 同様だった。 全ての 失政の 主要な 要因が 国民経済の 実質的な 破綻にあると するのだ。
しかし それは 疑わしい。 彼らは その 背後に あるものを 見ようとはしない。 少なくとも、ガーナの場合 そうでは ない。
指導者たちが 社会主義を 選択した 理由は、旧植民地体制からの 速やかな 脱却であり、生まれたばかりの 弱小な 政権 および その 国民にとって、それが 大きな 痛みを 伴うのは、ある意味 当然のことだろう。
仮りに、そこに 共通する パターンを 捜すとすれば、旧宗主国の 後退 (資本の 引き上げ)、それに 代わる U.S.A の 進出と 軍事援助、クーデター後の 政権と 世界銀行 ないし IMF との 強固な 提携を 挙げることが できるだろう。
Kwame Nkrumah は 中国に 出発する前、数ヶ月に わたり IMF の 援助プランを 検討し 彼らと 交渉を 重ねている。 そして 最終的に その 受け入れ断念を 通知し、北京に 旅立った。 クーデターは その直後に 実行に 移されたのだ !
IMF が 被援助国の 政治に 介入するのは これが 最初では ないだろう。 しかし、これほど あからさまな ケースは めずらしい。 種族間の 紛争は それに 利用されたにすぎない。 その 資金援助が 数年後に 延期されたのは、単に ガーナ国内の 混乱が 長引いたためだ。
IMF は これほど 拙速に ことを 運ばねば ならなかった。 何ゆえ 彼らは そうした 危機感を 抱くに 至ったのか。 そして その 答えは、当時 文化大革命の さ中にあった 中国の 外交政策に ある。
(この項 続く)