miscellanies

このごろ hatena のコメント欄で、多分に debate を 仕掛けているのを 見る。しかも 相手の 短見を たしなめる、というより コトバで 相手を 挑発、嘲笑する という 感じのものが けっこう 多い。
なぜなのかが もう一つ わからない。 それは匿名だから、というだけでは 説明が つかない 気がする。
debate → desperado → desperate と 連想 ? していって、こんな 文章に 出会った。
それは かつて 橋川文三石原慎太郎の 言動を 批判した 文章の 一節だが、

石原は 「戦争 戦争と くり言を いうよりも 現実の苛酷さを 直視せよ」 といい、ぼくは 「現実の苛酷さ という 空語に 惑溺するよりも その 苛酷さの 歴史的意味を 覚れ」 という かたちで 30分も 議論したであろうか。

ぼくは ともかく 明らかに 感じとったのは 石原の 「現実の苛酷さ」(など) という pathetic な 把握が (中略) さかのぼれば (『時代の閉塞感』の 文中で) 石川啄木が、

「「何か おもしろいことは ないかねぇ」という 言葉は 不吉な 言葉だ。 世界の どこかに なにか 非常な事が ありそうで、そして それと 自分とは いつまでたっても 関係が なさそうに 思われる。 (人々は) まるで 自分で 自分の 命を もてあましているようだ」

とした 明治末年の 日本人の精神構造と 共通する 因子を 含んでいる、ということである。

(そこには たしかに) 「現実の壁」のなかで、desperate で 「性急な思想」が 鬱屈した 低音として 流れている。

「なにか 非常」な ことの 中に 没入し、その 惑溺の 中で (のみ) 自己を 確認したと みなす (= 確かめようとする) 逃避の 姿勢が (ここには) 感じとられる。

「戦後世代の精神構造(2)」より (1959年)

これは ビンゴ! ですね。
まあ 絶対 認めないだろうけど。
(追記) 一部 訂正 (2013年 8月 25日)