石切場(8)

母が生まれたのは日中戦争が始まった頃だ。そしてこの時期以降、中国東北部から大豆が大量に輸入されるようなった。どんな町にも豆腐屋ができ、豆腐は誰もが口にできるものになった。
友だちに豆腐屋の娘がいたので、母は毎日のようにそこに出かけた。店の裏側の塀が壊れていてその穴から出入りできる。
豆腐屋では豆腐のほかにアゲもつくっている。それを母は飽きずに見ていた。
まず豆腐をうすくそいで三角に切る。それを天板に張り付けて水気をきる。油は高温と低温の2槽を用意しておく。はじめに低温のほうでしばらく揚げておいて、つぎに高温の槽に移して揚げ色をつける。
ときどき揚げたてをもらえることがあって、それはとてもあまくておいしいものだった。
少しずつ母をとりまく世界が広まっていった。
祖母もそうだが、女性で習い事で身を立てる - 結婚だけを人生の目標としない - 人たちが増えてきていた。
島にもお茶やお花を教える人がでてきた。そのなかに修行の途中で病気になりやむなく島に帰ってきた女性もいた。彼女は無論のこと、腕もしっかりしており、ときどき町に出稽古にでかけていた。
普通、女子の稽古始めは6歳、すなわち小学1年である。家の生活も安定してきたので、姉がお茶とお花の稽古を始めることになった。2人姉妹なので、母もいっしょに習うことにした。付き添いである。
姉のほうはあまり身が入らなかったらしい。母はというと、ちょっと変わった遊びを見つけた、といった感じだ。踊りのほうで一応の立居振舞は身につけているから、座って稽古をするのは苦にはならない。
しかしまだ4歳や5歳である。さすがに花、というより梅の木などを挿すときには困った。手が小さすぎて矯めがむずかしいのである。それでも小学校に入る頃には奥 - 免許皆伝 - までいった。
結局、母は稽古事では身を立てることはなかった。終戦後のことだが、祖母は母に裁縫の学校に入ることを勧めた。そのことが生活に役立つといって。祖母には自分が育った時代と、母が育った時代との違いがはっきりと判っていた。