読書ノート

[Rosa Luxemburg]
資本蓄積論

1863年 4月 22日付の 元老院意見書には、この 二重の 意味が 示されている。

(彼らの 意図は) 枢密院において アテール将軍より 説明された --

『政府は、その (植民) 政策の 主要な 目標が、(アルジェリア) 族長勢力の 弱体化、種族の 解体で あることを 見失いはしない。

このようにして、政府案への 反対者が 擁護する 封建制(!) の 最後の 残存物は 除去される。

私有財産の 確立と、ヨーロッパ移民による、アラビア種族 (居住地) 中心部への 植民 -- これらは、種族グループの 解体過程を 促すための 最も 確実な 方法だろう』。

(M. コワレフスキ 『土地共有 - その 崩壊の 要因、経過 および 結果』 1899年。

大革命後の フランスでは、知られているように、政府に 対する あらゆる 反対を 『封建制』 への 公然の、あるいは 隠然たる 擁護だと 決めつけることが 流行していた)

(注) 1851年の 国民会議において、代議士 ディディエは、報告者としての 説明のなかで 語っている (ローザ・ルクセンブルグ) --

『われわれは 早急に 種族グループを 解体しなければならない。 なぜなら それは、われわれの (アルジェリア) 支配に 対する あらゆる 反抗の 根幹 であるからだ』

1863年の 法律により、次のような 構成の、土地分割のための 特別委員会が 設けられた -- 議長には 少将 あるいは 大尉が 1名、さらに 副知事 1名、陸軍の アラビア人 官僚から 官吏 1名 および 国有地管理局より 官吏を 1名。

これらの、アフリカの 経済的・社会的諸関係に 対する 生え抜きの 精通者たちには、三重の 任務が 課せられた -- まず、種族領地の 境界を 正確に 期すこと、つぎに 大家族所有地を それぞれの 地域ごとに あるいは 大家族ごとに 分割すること、そして 最後に その 大家族所有地を 個々の 私有地へと 分割することである。

アルジェリア内部への 少将らの 派遣は すみやかに 実行され、それぞれの 地方に 委員会が 設けられた。 その際、彼らは 測量技師、土地の 分割(確定)人、その上、すべての 土地係争における 裁判官をも 同時に 兼ねていた。

最終的に、アルジェリアの 総督が その 分割プラン (完了) を 確認するはずだった。

委員会が 10年ものあいだ 額に 汗した後、その 結果は 次のようなものであった --

1863年から 1873年に かけて、アラビア人の もつ 種族領地 700 の うち 約 400 が、それぞれ 大家族に 分割された。

このとき すでに、将来における 不平等の、すなわち 大土地所有と 小分割地(所有) の 基礎が すえられた。 つまり、種族領地の 広さと 成員数とに 応じて (その 所有は) 成員 1人あたり、あるいは 1-4 ヘクタール、ときには 100-180 ヘクタールにも なったからである。

しかし、大家族の もとで (私有地への) 分割は (実現できず) 現状のままだった。

家族領地の 分割は、少将ら (委員会の) 意志に あらがい、アラビアの 慣習という、打ち勝ちがたい 困難に 遭遇することとなった。

こうして、個人 (=私有) 財産を 確立し、これを フランス人の 所有に 帰そうとする フランス (植民) 政策の 目的は、またしても その 多くが 失敗したのである。

(この項 続く)