読書ノート

[Rosa Luxemburg]
経済学入門
予定を 少し 変更して、「もしも ウシや ブタが 貨幣だったとしたら ...」。

いつ どんな 社会にも、生存のための 基盤となる 財産、あらゆる 人間にとって、必要で 有用な なんらかの 1つの 商品が 存在した。

もちろん、実際 その 商品が ちょうど 靴である 必要は なかっただろう。 人は それほど 見栄っぱりではない。 しかし その 生産物が、例えば 家畜であることは あり得た。

人は 靴だけ あっても やってゆくことは できない。 また 衣服だけ、帽子だけ、穀物だけでも やっては ゆけない。 だが 家畜は、経済の 基礎として、どんな 場合にも、そうした 社会の 存在を 保証している。

前に われわれが 見たように、共同体的労働の 計画性を もたない (私有制という) 孤立した 私的生産者から 成り立っている 1つの 社会では、どんな 労働による 生産も さしあたりは 私的な 労働となる。

この 労働が 社会的に 必要か、したがって その 生産物が 価値を もち 労働する 人間が 全生産物における その分け前 (に 預かるのを) 保証するか、あるいは それが 価値を もたない 労働だったか、を 説明するのは この 生産物が 交換によって 引き取られるか どうかという 事実のみに よる。

(この 例では) 今や すべての 生産物と 交換されるのは 家畜だけである。 ... どんな 私的生産物であっても、それが 家畜との 交換が 可能か、家畜と 価値を 等しくするかにより、はじめて 社会的必要労働だという 刻印が 押されるのである。 さらに 個々の 孤立した 私的な 人間は、商品を 交換することによって はじめて、または 商品を 単に 交換することでのみ、この 社会の 成員だという 刻印が 押されるのである。

とにかく 家畜は、例えば 土中から 掘り出された 粘土のカタマリや 小石や 一片の 鉄などより、いくらか 人に 似ていることもあり、はるかに 人間に 親しい 存在であるのは 非常に はっきりしている。 ... あなたたちは、人間相互の 間にある、社会的 結びつきを 表現するには、ともかくも 家畜のほうが、冷たい 一片の 金属 (すなわち 貨幣) より たしかに ふさわしいだろう、と 認めるに違いない。

ところが ... 前に 述べた 交換における その 意義と ここでの 家畜の 役割 (を 考えれば、ここでは) 家畜は -- 貨幣以外の なにものでも ないのである。

今、鋳造された 銀や 金の 一片、それどころか 紙製の 銀行券以外、あなたたちが 貨幣を 連想できないとすれば、そして その場合、人間相互の 間に 交通する (= 流通する) 媒介物、社会的強制力としての 金属 あるいは 紙製の 貨幣が 自明のことであって、それに 反して 家畜が その 役割を 果たしたのだという 私の 説明は 狂気の沙汰だ、と 考えたとしたら、単に それは、あなたたちの アタマが 今日の 資本主義社会の 観念に どれほど ひどく とらわれているかを 証明するに すぎない (使用価値の 廃棄は 金属貨幣において 完成される -- ローザ・ルクセンブルグ)。

家畜は、もはや 単に 生活資料として 消費するためだけで なく、それとともに、直接、社会的生産物として、一般化された 商品として、(すなわち) 貨幣として 機能する 目的のため、飼育されるようになる。 もちろん 比較的 わずかな 割合の 家畜は 依然 屠殺されるか、スキを 引かされたりもする。 しかし 家畜の この いわば 私的な 消費、私的な 性格は、公的な 性格と 比べ、ますます 減少する。

家畜は (私的な 性格を もつと) 同時に また すべての 価値と 労働との 尺度になる。 ... 最終的に こうして 家畜は、富の化身となるのである。

人は、永遠に 家畜について 語り、そして 夢見る。 文字どおり 家畜に 対する 崇拝と 賛美が 生じる。 ... 家畜は 人々の 幸福の 化身である。 家畜と その不可思議な 力が 詩に うたわれ、家畜のため 犯罪や 殺人が 行なわれる。 そして 人々は、首を かしげながらも、「家畜が 世界を 支配する」 と、くり返し 語る。

もし この 言葉を あなたたちが よく わからないのなら、家畜 (という 単語を) ラテン語に 訳してみるといい。 古代ローマの pecunia (= 貨幣) とは、pecus (= 家畜) に 由来するのだ。

商品生産 (3)