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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

"This is the history of failure"

当時 アフリカは 動乱状態に あった。 フランス植民地主義者が アルジェリアから 追い出され ベルギー植民地主義者は コンゴからの 撤退を 強いられた。 しかし 帝国主義者たちは 南アフリカアパルトヘイト政権や さまざまな 国の 反動的要素と 連繋して しきりに 頑強な 後方からの 行動で ゆさぶりを かけた。 (彼らにとって) 捨てておけない ことは アフリカの 莫大な 鉱物資源だった。 それは また ソビエト連邦と U.S.A. との 主戦場でも あった。

Che は これは 人でなしの 戦いの 場だと 結論を 下した。 アルジェリアの (初代) 大統領であり、この頃 Guevara と 討論を 重ねた Ben Bella は いっている、「巨大な 革命の 可能性を もつと 思われる アフリカの 現在の 状況、それは Che を アフリカが 帝国主義の weak link だという 結論に 導いた。 今、彼が その 努力を 傾ける 決心を するのは アフリカしか なかった」と。

当時 独立した (ばかりの) コンゴでは ベルギーと フランスの 帝国主義者たちが 軍事介入の 口実として 混乱を つくりだすことで Patrice Lumumba 左翼政権の 破壊を 工作した。 CIA の 積極的な 協力により 反動は Mobutu に Lumumba を 殺害させ レオポルドビル (キンシャサ) で 権力を 奪取した。 Lumumba の 支持者らによる ゲリラ戦が 開始された。 キューバの 作戦は Laurent-Desire Kabila 指揮下の 反乱側を 支援して 遂行することと なった。

驚くことに 37歳の Guevara は 正式の 軍事教練を 受けていない (アルゼンチンでの 徴兵軍務に つくことは 彼の ゼンソクによって 妨げられた)。 だが 彼には キューバ革命の 経験が あり それで 十分だった。 同じく 赤軍を 組織したとき トロツキーは 軍事教練を 受けていない。 だが 革命的情熱で 武装した 赤軍兵士は 彼らと 対峙した すべての 外国軍を 敗北させた。

かつて ナポレオンは 戦闘においては 士気が つねに 決定的な 要素と なると 指摘した。 とはいえ コンゴ人 同盟者たち (の 実体を 知ること) により Che は 早々に 迷いから 覚めた。 彼は Kabila の 能力を まったく 評価しなかった。 彼は 書いている、「彼 (Kabila) が 時の人だと 信じさせるものは 私には なにも ない」。 キューバや ロシアの 革命家たちは 彼の 信じる 主義のために 闘った。 だが コンゴでは 反帝国主義者の 闘いは 部族による 分裂、個人的な 野心 そして 腐敗の 混じり合った ものだった。 その後の 出来事が これを 明らかに する。 1997年 5月、Laurent Kabila は Mobutu を 倒し コンゴ民主共和国の 大統領と なった。 彼は 2001年に 暗殺されるまで その地位に あり 腐敗した 暴君として ふるまった。 同様に 堕落した 息子 Joseph Kabila により 彼は その 任期に 留まることに 成功したのだ。