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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

キューバトロツキー主義者が 逮捕されたとき Che は 彼らを 釈放させるよう 自ら 介入をした (後に 彼は それが 誤りだったと 語った)。 彼は また 非正統的マルクス主義者の 1人として トロツキーの 著作を 学ぶつもりだった。 こうした 姿勢は トロツキー反革命家で 社会主義の 敵と みなす 毛沢東の 支持者の 見解と 異なる。

これらの 見解が キューバで 1997年 9月 Contracorriente 誌 No.9 に 公表された Armand Hart Davaloo 宛の 手紙の 中に 示されている。 この手紙は Che が アフリカ遠征中の 1965年 12月 4日に タンザニアダルエスサラームで 書かれた。 その中で 彼は ソビエトの 哲学と 一部 キューバ人の 卑屈な tail-endism に 対して 彼自身の まったく 批判的な 立場を いい表わしている。

「この [ウンザリする!] 長期の 休暇で 私は 長い間 するつもりだった 哲学に 私の 鼻先を 突っこんだ。 私が 最初に キューバで 困ったのは 読まれることの ない ソビエトの 大部の 書籍 [literally "Soviet bricks" los ladrillos Sovieticos] を 除けば 長い間 何も 出版されなかった ことだ。 (こうした本では) 自分自身で 考えることを 認めず 党が 読者に 代わって (それを) するため まったく (その中身を) ウノミに するしか ないという 欠陥を もっていた。 方法として それは 完全な 反マルクス主義であり その上 たいていは まちがっていた」

「[キューバの] 出版物を 調べると おびただしい数の ソビエトと フランスの 著者が 見つかるだろう [彼は Garaudy のような フランスの hard-line な スターリン主義者を 指している]。 これは 翻訳の 入手が 容易で また それが 観念論的な tail-endism の ためだ。 これは マルクス主義の 精神を 人々へと 手渡す 方法ではない。 最上の 場合 それが 良質で (この場合 そうでないが) 必要とされる マルクス主義の 宣伝だとしても しかし 不十分だ」

彼は マルクスエンゲルスレーニンスターリン 「そして その他の マルクス主義者」 の 作品を 含む 広範囲に わたる 政治教育の プランを 要求する。 「例えば マルクスへの 批判で 誤りを 犯したが 暗殺によって 亡くなった ローザ・ルクセンブルグ、彼女の どんなものも 誰も 読んでいない。 そして こうした例では 帝国主義の 本能が われわれに 勝っている。 また いくらかの 貢献をして その後 (革命の) 路線から 去った カウツキーや Hilfering (こんな 綴りでは ない) [Che は オーストリア共産主義者 ルドルフ・ヒルファーディングのことを 考えている] を 欠き、 全体として 教師風ではない 同時代の 多くの マルクス主義者を 欠いている」

彼は 冗談として つけ加えている、「それから 思うのだが あなたの 友人の トロツキー、彼は 生きて 執筆した、も 含まなければ」 トロツキーの 思想への 彼の 興味は ロシアや 東ヨーロッパの 官僚主義制度に 幻滅していくのと 同じ 割合いで 増していった。 Che Guevara は 熱心な 読者であり ボリビアでの 彼の 最後の 闘いには 多くの 書物を 携行した。 興味を 引くことに それらの 中に トロツキーの 著書 『永続革命論』 と 『ロシア革命史』 が あった。

山岳地帯や ジャングルでの ゲリラ戦争という きわめて 困難な 状況において 兵士は 絶対に 必要と 考えるものだけを 携行するだろう。 これが その時に Che が どう 考えていたかを 語っている。 彼は 生涯のなかで トロツキー主義へと 接近し 彼の 短い その生が 断ち切られる 前も 事実 そう していたと われわれは 確信する。