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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

反乱側に 有利な 強みは、買収と 腐敗で 内側から ダメになった 旧体制の 長期に わたる 欠陥に あった。 US 帝国主義の 資金と 軍事援助にも かかわらず Batista は 革命の 進行を くい止めることは できなかった。 彼の 兵士たちは 病んだ 体制を 防御するため 彼らの 命を かけることを 嫌がっていた。 Siera Maestra 高地での 一連の 伏兵(戦) により 弱体化し 士気を 失って、最後の 攻撃が 開始される 前に Guisa や Canto の 平地で 軍は すでに 徹底的に その 士気を くじかれていた。

この戦いの なかで Che は 大胆さ、勇気 そして その 軍事技能により 信頼を 得て、Comandante (司令官) と なった。 彼は 今や 唯一、Fidel Castoro に 次ぐ 第二 (の 立場に) あった。 1958年 12 月 最後の 日々、Comandante Guevara と 彼の 兵士たちの 縦隊は 最後突撃のため Havana に 向かって 西へと 進んだ。 この縦隊は Santa Clara の 決定的襲撃では 最も 危険な 任務を 引き受けた。 1983年 12月 27日、Palma Soriano で 語った 演説で、Castro は この攻撃の 重要性を 指摘している、

「われわれは Cautillo 河に 防御線を 置いた。 Mapos を われわれは 包囲していたが まだ Palma が あった。 (そこには) およそ 300 の 敵の 兵士が いた。 われわれは Palma を 占拠しなければ ならなかった。 また われわれは Palma で 武器を 捜し出し 確保することを 望んでいた。 なぜなら われわれが Siera Maestra の La Plata を 後に したとき、25人の 武装した 兵士と 1000人の 武器を 持たない 新兵を 残してきたからだ。 われわれは こうした やり方に 沿って これらの 部隊を 武装した。 われわれは この戦いの 間に 彼らを 武装したが、実際 Palma において その武装を 完全に 終わらせたのだ」

反乱軍への 最後指令は 1959年 1月 1日に Palma より 発せられた。 だが この独裁を 打ち倒す 最後の 仕上げは Havana での 労働者たちの ゼネラルストライキだった。 (独裁者の) 野望は トランプの 家のように 崩れ去った。 Batisita の 将軍たちは 各々が 反乱側との 交渉を 試みていた。 こうなったとき、独裁者は このゲームが 終わったことを 悟り、1959年の 新年に ドミニカ共和国へと 逃れた。

政権へ

旧い ブルジョア国家は 粉砕され 新しい 政権が 組織された、あるいは ゲリラ軍の 土台の 上に 即興で つくられた。 今や 政権は ゲリラ軍の 手に 渡された。 世界中の マルクス主義者たちは この キューバの 革命を 受けいれなかった。 これは、歴史上 最も 強力な 帝国主義者の 国家の 玄関先で、帝国主義軍国主義 そして 地主制 を 突き刺した 大打撃だった。 それは 至るところで 圧迫された 民衆に 希望を 与えた。 そうで あっても、ここで 起きた その やり方は 1917年 10月の ロシア革命とは 違っていた。 ソビエトも 労働者階級も なかった。 革命の 最後の 勝利が ゼネラルストライキを 通ったことが 確認されたとしても、それが 重要な 役割を 果たしたのでは なかった。