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しかし、あくまで 「理性を 擁護する」 見地から、真下信一は、ルカーチの 哲学上の 要請に 答え、「思想」 を 「モラールな力」 と 為すべく、日本の現状に 対する - ここでは、1931年の 「柳条溝事件」に 始まり、1945年 8月 6日の 広島への 原爆投下を 経て、ついには 8月 15日の 「大日本帝国」 の 「崩壊」 へと 至った 「わが国の 侵略戦争の 歴史」 の その 「本質」 に 焦点を あて - 「思想家としての 責任性の 問題」 を 掘り下げていく。

いかなる 事実にも、いかなる 出来事の 新しさにも、あだかも 絶縁体でしかないような ファナティシズムを 別とすれば、8.6 と 8.15 は 日本の ファシスト的戦争劇における 最大の ペリペテイアであった。

主人公たちの 頭と心のなかで 「無知から 知への 急転」 が そこで 生じねばならないはずの 「認識の場」 であり、ドラマの 究極の意味が 「そうであったのか!」 という かたちで 了解されるべき ラスト・シーンであった。

もと ギリシャ語の ペリペテイアは、ことに、悪しき状態への、人間的災禍ヘの 急変という 意味を もつものであるが、8.6 と 8.15 の パニック、自己を 含めて この 国民の 最大の災禍を かかるものとして 率直に みとめ、つづいて、「最後に」 このような 「結果として あらわれ」 たものが 「客観的現実のなかに 既に とっくに 存在」 していたことを 承認し、この確認に もとづいて あの 「本質」 を たぐり出し、その 「本質」 への 自己の かかわり合いを 明らかにしようとすること、このことが 責任性の 問題一般が 生じうる 必須の 条件なのである。


「8.15」 を われわれは 見た。 それは 事柄の 事実的経過のなかで 「うわべの まやかし」 が 一枚一枚と 剥ぎとられていく その とどのつまりに、むきだしの 「本質」 として あらがいがたく 目前に 横たわったものであった。

それを 各自が 見たと思った そのイメージを 保ちながら、あの歴史的経過を 逆に たどれば、数々の 「うわべの まやかし」 が、あだかも フィルムの 逆回転のなかでのように、一枚一枚と 各自のもつ 「本質」 の イメージの上に 戻されていく。

この 後からの 積み戻しのなかでは、新しく 暴露された 諸事実の 知識が 加えられつつ、ひとは 事実的経過のなかに かつて 巻き込まれていたときよりも、はるかに 聡明に ふるまうことができる。 「本質」 の イメージは 多少とも 見直され、この 見直された 「本質」 観が、かつての 自己に 対置される。

たとえ 「各人の 自己批判、自己責任の 追求の仕方は、『本質』 のそれぞれの 見直し方に 相対的であるより ほかない」 としても、真下信一の この 「理性による」 要請に 対し、「非理性」 の 見地にある 誰一人として - 原則的には - そこから 逃れることは 不可能だろう。(了)


疲れた〜 ...oLr