miscellanies

前の日記で 「手元にない」 といった 古在由重の本は 『哲学者の語り口』 という書名で 没後の 92年、鈴木正の 編集により 勁草書房から 出版されたものだった。
この本には、追悼文が 2つ 含まれていて、1つは 藤野渉、もう 1つが ここで 取り上げる 高桑純夫の ものだ (藤野渉に 関しては、今後 書くかもしれない)。(追記 参照)
wikipedia 風に 記すと、

高桑純夫 (哲学者)

ヨーロッパ中世哲学、特に トマス・アクィナスを 専攻する。 戦時中に 三木清を 知り、戦後 主体性論争に 参加。 社会問題にも 積極的に 発言をした。 主著は 『人間の自由について』。哲学の 啓蒙書を 多数 著している。

その追悼文で 古在由重は、高桑純夫と 平和運動との かかわりについて 書いている (高桑純夫は 長年、原水禁国民会議の 事務局長を つとめた)。 急いで つけ加えると、古在由重が 書いているのは、大衆運動に 携わる 研究者に 付随する 問題点、その研究 - 高桑純夫にとっては 哲学 - の 困難さに ついてである。
古在由重は 触れていないが、高桑純夫は 晩年に 至るまで 哲学の探求に 意欲的であり、未見だが、76年に 「市民的欲望の解放と批判」 という 論文を 発表している。
そして、高桑純夫の 第一の業績を 挙げるとすれば - 畠中尚志と ならび - スピノザの 『エティカ』 を 日本文に 訳したことだろう。 これにより、日本語で 読むものにとって スピノザは 一層 身近なものと なった。

スピノザ エティカ

たしかに 人間が 理性の導きに したがって 生活することは まれである。 かえって 実情は、彼らが たいていのばあい 蔑視しあい、そして 互いに 不快がっていることのほうが 多い。

しかし それにもかかわらず、彼らは 孤独な生活に 耐えず、それゆえに、人間は 社会的動物なりという 定義が、多くのひとから 大いに 歓迎される ゆえんなのである。(第4部 定理35 備考)


自己の法律と 自己保存力とによって 確立した社会を 国家という。 そして、国家の機能によって 保護される者を 市民と呼ぶ。

人間が 市民であるばあいには、このひと または かのひとに 何が 属するかについては、一般的合意に 基づいて 決定されるから、正義 または 不正義が 起こりうるのである。

かくて 正義と不正義、犯罪と功績というのは 外的な概念にすぎず、精神の本性を説明する 属性でないことは 明らかだ。(定理37 備考2)


同情に 動かされやすく、他人の悩みや 涙を見て 感動する ひとは、しばしば 後で 悔やむようなことを 行なうものである。

なぜというに、私たちは 感情のなかに立つと、それが 善であることを 確実に 知っていても 何一つ 行なえないからであり、また、にせの涙でも やすやす 欺かれてしまうからでもある。

しかし 断っておくが、私が ここで 論じているのは、ただ 理性の導きにしたがって 生きている人間のことでしかない。

もし 理性にも 同情にも 動かされないような 人間があるとしても、そういう人間は 人非人と呼ばれるが 当然だからだ。 つまり、彼には、人間らしいところが もはやないと 考えられるからである。(定理50 備考)


謙虚は、全然、徳ではない。

後悔は なんら 徳ではない。

人間が 理性の導きにしたがって 生活することは まれにしかない。 そこで この謙虚と後悔という 二つの感情、いや そればかりか 希望や恐怖なども、害よりは 益をもたらすことが 多い。

だから、もし一度は 過ちを犯さねばならぬというなら、せめて この方面で 犯すほうがましだということになる。(定理53, 54 備考)


が、どうしても 黙って すまされないのは、他人を 正当以下に 評価する人間もまた 高慢だといわれている点だ。

そして、もし この意味で 通るなら、高慢は、人間が 自己を 他人よりえらいと 誤って判断するばあいに 生ずる 喜びの一種だと 定義しなければなるまい。

さて、もし これが 確定的な事実だとすれば、高慢者は 必ず 嫉妬深いこと、 ... (また) 彼の 無能な精神の意を迎えて、本来の愚物を 精神病者に 仕たてあげてしまう ひとびとがいることだけが うれしくなるということ、などを 私たちは 容易に了解できるのである。(定理 57 備考)


自身は、高慢に 対置されるにもかかわらず、じつは 自卑者ほど 高慢者に 近いものはない。

つまり 自卑者こそは、他人の行為を 直してやるというより あばくために いとも熱心に それを観察しようと努める ひとびとであり、そして結局は、自身だけを 求め、おのれの自卑を 誇りながら、しかも 自卑の外観だけは 維持するという 芸当をやることになるのである。(定理57 備考)

旧訳に 付した 解説文も 良いものだったが、次は 高桑純夫の 「解説」 について 少し 書いてみることにする。
(追記) 本が 入手できたので 確認すると、藤野渉の 追悼文は そこには 載っていなかった。 粟田賢三の 「思想と現実」のほうだったと 思う。 (2012年 5月 21日)