miscellanies

スターリンの 『十月革命論』(国民文庫版) を 大急ぎで 読み返してみた。 彼は トロツキーとの 論争で、多くの 文献を 引用しているが、彼自身 革命当時 どう 行動したか、という 記述は ほとんど ない。 党会議の 議決において、レーニンに 同意した 議事録の 記録を 持ちだすだけだ。
実際、スターリンは Furr の いうように、彼を とりまく cult に 反対したのか?
非公開の トカチェフスキー裁判 - フルシチョフは、これのみが 虚偽だと しているが - を 含めた 4つの モスクワ裁判は、1936年から 38年に かけて 行なわれている。 そして、公開された 裁判で 検事を 勤めた ヴィシンスキーは、1917年 当時、反革命の 側に おり、その後 ソビエト陣営に 移った、いわば 典型的な 出世主義者だ。
この 裁判を 頂点として、急激に ロシア国内に 拡大した 粛清を、現実に 実行したのが 内部人民委員部であり、ヤーゴダと ベリアとが よく 知られている。
そして、裁判当時 (1936-38年) に 内部人民委員だった 人物が - 一般的には 無名の - エジョフである。
ぼくは、この エジョフの 時代に cult は - 党内の すべての 部門で - 肥大化し、Furr の 言葉を 借りると、膨大な 数の 「出世主義者や 怠けもの、そして 陰謀家」 を ソビエト官僚の 内部に 取り込むことに なった、と 考えている。
(その後、内部人民委員となった ベリアは、エジョフを 告発し 自殺へ 追い込んだが、そこでの cult 自体、温存している)
スターリンが、こうした 内部人民委員部による 「恐ろしい」 弊害を 「明白に 拒否した」 ことは - その 行き過ぎを 咎めることは しても - その後、一度も ない。
以上が - rough だけど - cult への スターリンの 関与に 対する、ぼくの 基本的な 考え方です。


(追記) 「Grover Furr への インタビュー」 を、[シラノの新聞] に 追加しました (読み返すと、あいかわらず 訳の マチガイが 多い ...oLr)