miscellanies

コメントの 訳は、少し ポキポキしてるけど、特に 文意が 通らない 箇所は ないはず*1
その Kazmier の 応答の なかに、

われわれは われわれ 自らの 仕事場で、[論文を] 書くには 確実な 手順を 踏むことを 認知すること、意義のある 研究へと 導くようにする 何かを 理解すること (後の点については、多くの 人たちが 見落としている) を 教えている。(#86907)

という 一文が ある。
Kazmier は 常に Horowitz の 謀略を 念頭に いれて コメントしており、ここでは Horowitz が 攻撃した 相手の 業績に 対し ロクに 検討も 加えなかったことを 非難している わけです。
ただ、こうした Kazmier の 一連の コメントを、なんとなく 読み流すと、専門家の 意見に 異義を となえるな、というふうに 受け取って 「傲慢さ」 を 感じるかも しれない (それこそが Horowitz の 狙うところだが)。 むろん、それは まちがっている。
学問の 専門性と、時おり 学者に 見られる そうした 独善性との 違いを、明解に 説いた 文章を 見つけたので 引用してみる。
(これは、公開自主講座で 宇井純武谷三男との 討論会の 記録に、武谷自身の つけた コメントの 一部ですが)

宇井先生は 「自分が 実際 経験して 調査したことでないと、私は 話す気が しない。 それだけの 自信が ないと いうことであります」 と おっしゃってる。 これは 一見 たいへん 謙虚に 聞こえますが、実は それは 東大アカデミズムを 典型的に 表した ことばに 他なりません。 すなわち、自分は 他の 領域に 口を さしはさまない。 そのかわり 他の 部門の 人たちは 自分の やっていることに 容喙(ヨウカイ)するなという セクショナリズムです。 そして 自分は この方面の 権威であることを 確立しようと いうわけです。

これでは 連帯も できないし、運動も 拡がらないでしょう。

毛沢東の、調査なくして 発言なし、というのは (これとは) だいぶ 意味が 違うのです。 それは 「自分が 実際 経験して、調査したこと」 という 自分では ないからです。 一般的に 調査に もとづいて 発言せよ、という ことでしょう。(「科学技術と 安全性」1973年)

Kazmier の 示すものは、当然、後者の 意味です。
もう 1つ、Kazmier の 発言から、

そう、ここに 人々を ありふれた 考え方 あるいは つくり話から 解き放つことの、1つの 理由が ある。 例えば、 ヒットラーは 「狂人」 に すぎなかった、これが 全てだ、という 説明が ある。 そこには 確かに、ファシズムが どこから 現れたのか、あるいは なぜ 人々は それに 引き付けられ その弁明者と なったのか、という 説明が されていない。(#87150)

これは、60年代 後半に、U.S.A. において、radical が 従来の liberalist に 対決したとき、彼らから 提議された 次の 発言を、背景に置いて 考えると、理解しやすいかも しれない。

現在の 社会学は 学問とは いえない。 その 一例として、ファシズム体制と U.S.S.R. の スターリン体制とを、その 拠って立つ 基盤の 違いを 考慮に いれず、全体主義 一般に 解消しているでは ないか。

そこには 確かに、故意の 「省略」 と 「単純化」 とが 見受けられる。
Horowitz は、こうした 疑似学問の、それも 悪しき variant だと いうことです。

*1:誤訳が あれば 別だけど ...