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Horowitz との 討論 (続き)

そして、私が この本に 対する 調査に ついての 講義を 用意していると、私を [フランスへ] 招いた 教授の 1人から、教室の 視聴覚設備と 付属する メディア機器が、学生運動に まぎれ込んだ "autonomistes" の手で 全て 破壊されたことを 知らせる、1通の やりきれない メールを 受け取った。 私の 考えでは、彼らの 名前は、彼らの 権利を 守ろうとする [大学という] 現況 そのものからの 自立 autonomy の 要求を 意味している (大学の 学生が 一貫して 重要だ、とは 今まで 誰も いって いない)。 しかし、このような 行動に 参加するものは、学生全体の 中で、ほんの 少数派を 代表しており、彼らの 行動は - 控えめに いって - 新しい 世代の フランスの エリートの、深刻な - その中核に おける - 問題解決 能力の 欠如を 示している。

確かに、U.S.A. の 人間が レーガンの 最初の 在期中に 喜んで 捨て去った、生活の 水準を 維持するために、諸団体を 街頭へと 押し出した 左翼の 実力は、その 大がかりな 抗議によって 証明される。 しかし、現実には、彼らの 主張は、前向きで 革新的な 問題解決の 能力ある 方法にしては、今のところ、ほんの 少し 新しいものを 示しただけで あり、そのため、フランスの 深刻な - たとえ 時に 誇張される ことが あるにしても - 経済問題に 立ち向かうために 必要 [で 十分] なものでは 全く ない。

そして、こうした 能力の - 少なくとも オリジナリティの 欠如は、われわれが 発展途上世界の 大学の 学生たちが、ずっと 多くの 切実な 社会問題の 解決に どう 取り組んでいるかを 考えるとき、さらに 著しいものと なる。 こうした 動きは、ほんの 数週間前 the American University of Beirut (AUB) へ 講演のため 招かれ、滞在した ときへと、私を つれ戻した。 ここは 今も 戦争の まっただ中に あるが、そこでの 私の すごした 時間は とても 興味深い ものであり、AUB の キャンパスは その学生たち (悲惨では あっても、敵対する 党派とは 限らない) によって 管理されており、ゲートの 外側では 混乱と 暴力とに 取り囲まれた その中に あって、暴力に よらない 討論 [が でき] 思いやりすら ある、1つの オアシスであった。