miscellanies

「今年を振り返って」
個人的には まず 新聞を読むのを やめたことが 挙げられる。
新聞は それ自体 社会の縮図であり、通読することは 歴史の本 一冊を読みとおすより価値のあることは (家永三郎羽仁五郎 の言を待たずとも) 真理であるのは まちがいはない。
にもかかわらず 読まないと決めたのには 無論 理由がある。
一つは、情報操作の方法が あまりにも 露骨になっている現状がある。
マスメディアによる情報操作は 以前から ある程度知られていた。代表的なものといえば、各新聞社による 世論調査の 公表時期の調整が あげられるだろう。
しかし、ここ数年のやり方は 記事の 取捨選択の範囲にまで 及んでいる。しかも よりキメがこまかく - いいかえれば 悪辣に - 報道の主体としての 自らを 読者から 見えなくする 傾向にある。
一例としては 第一報の後 後続の記事の掲載が 目に見えて 減少していることが あげられる。"catch the eye" なニュースであれば ゲップがでるくらい 押しつけてくるにもかかわらず、だ。
ある程度 記事を follow することは、該当する記事の内容の 信頼性を高めるのだが、もちろん それを 百も承知の上だと 考えられる。
あと一つ あげるとすれば やはり 外信の扱いだろう。
契約している通信各社から 提供される 外信の総数は 毎日 数百あると思われるが、実際に 紙面に載るそれは 全体の数パーセントに満たない。それだけ 内容を検討して 選び出すには 記事を書く以上の 報道のセンスが要求される。
しかも現在、戦闘地域とされるところには 安全上 自社の記者やカメラマンを 送り出すことができない。より その選択には 慎重でなければならない。
だが 実際には - 外信というより - オピニオン性の強いものが 優先され、しかも 数ヵ月を待たずに それが虚偽であったことが判明しても 自社記事ではないという 言い訳で 訂正されることは まずない。
この文章の最初のところで「報道の主体としての 自らを 読者の前から 見えなくする」と書いたが、それは 当然 次に書くことと 補完 - あからさまに 癒着 といってもいいが - しあっている。
それは これらの記事には 必ず「道徳的判断」が含まれることだ。なぜなら 記事自体に 客観性が乏しいため 生のままでは 読者から その価値を斥けられるおそれが 多分にあるからに 他ならない。
記事の内容の 客観性に ブレが含まれることは ある意味 当然ともいえる。しかし それに 道徳的 - マスメディアの考える - 判断を加えることは 最悪の選択でしかない。
こういった理由から ほぼ一年間 新聞を読むのを やめてみた。
結果は というと . . 残念だが なにも困ることは なかった。少なくても 価値のある情報というものが 確かに 存在するようである。
他の 報道媒体の 可能性については べつに考えるとして、やはり 新しい日刊紙が 必要とされる時期が 近づいているのかもしれない。