古いノートから



軍隊と下士官

井上一夫

いまの 自衛隊と 戦前の 軍隊とは どう 同じであるか、どう 違うかと いうようなことを 最初に ちょっと お話しておいたほうが いいんじゃないかという 気がします。

近代的な 国家、ブルジョア国家の 基本的な 軍隊構成の 理念というのは 要するに 国民軍ということでしょう。 徴兵制を 根幹とし いわゆる 国民皆兵という 思想に 裏づけられた 国民軍制度、これが ブルジョア軍隊の 特質です。 ただし 日本の 軍隊の 場合、特殊的なのは イデオロギー的な 性格づけが 国民の 軍隊とか 国家の 軍隊とかいうんじゃなくて 天皇の 軍隊ということになっていた。 しかし 実際の 軍隊 そのものについては やはり 日本の 社会の 階級的な 構造が そのまま 入ってきている。

軍隊というのは ふつう 将校団、下士団、兵卒集団の 三つに 身分的に 分けられています。 将校団は 文字どおり 国軍の 幹部であって まったく 特殊な エリート教育を 受けてくるわけです。 下士官集団の方は 普通は 二年間の 現役兵として 入ってきた 人のなかから 候補者を 選抜して 約六ヶ月の 下士官教育ののち 下士官に 任官していく。 兵卒の 場合は もちろん 二年間の 現役ということで 服務するわけです。

このように 将校、下士、兵卒と 三つの 集団が 身分的に 厳然と 区別されているが しかし やはり 現実の 社会の 階級構造が それに 反映してきます。 幹部たる 将校団は 中流階級以上の 子弟によって 占められている。 中学校へと 進める 家庭は 戦前の 日本では 数が 少なかったわけで そのなから さらに 軍人を 志望して 幼年学校、士官学校へと 進むわけですから やはり 相当な 上の 階級の 子弟に 限られてくる。 下士官の 場合は そういう 教育を 受けられなかった 農村の 子弟や 都市勤労者の 子弟が 下士官を 志願していく。 兵卒は 十把一からげに 一銭五厘で かき集められてくるわけです。

こういう 社会の 階級構造が 軍の 階級構成に ぴったりと 反映している。 だから 将校団と 下士団と 兵卒集団の 間に 共通の 軍人意識、共通の 軍隊意識というものが あまり ないわけです。 それを 補うためにこそ 天皇の 軍隊、つまり 天皇のもとにあっては たとえ 大将、元帥、一兵卒といえども 同じである、陛下の 赤子たることにおいて 天皇の 股肱たることにおいて 変わりはないんだという イデオロギー教育が 徹底的に 行なわれた。 しかし 実際問題として 自分の 経験に 即して言えば そういう イデオロギー教育が 成功した、あるいは 軍の 思想的な 根幹を 成したとは どうしても 思えない。

たとえば グアム島から 帰ってきた 横井さんの 記事を 読んでみますと みんな ためにする 目的が あるのか 異口同音に いかに 昔の 天皇制軍隊の 思想教育が ものすごいものであったかということを 強調しているんですけれども 私には どうしても そう 思えない。 横井さんが 生きのびたのは ほんとうに 生きたい、へたに つかまりたくない、あるいは うっかり 出ていったら こわい、そういう 単純簡明な 生きていくための 欲望だろうと 私は 思う。 生きていくために 横井さんの 資質が いかんなく 発揮され その 資質を 発揮するについて「生きて 虜囚の はずかしめを 受くるなかれ」という「戦陣訓」が 初めて 功を 奏したんであって「戦陣訓」が 横井さんを とらえてはなさかったんじゃない。 つまり 横井さんは 生きていくために「戦陣訓」を 必要としたとしか ぼくには 思えない。

横井さんのことは ともかく 自分の 体験に 照らして 考えてみますと 天皇中心主義的な イデオロギーが どこまで 日本の 国軍の 全体を とらえたかは 疑問です。 もちろん 将校団は その 尖兵たる 役割りを ひきうけ みずからも それを 兵隊に 教え 実践する以上 天皇主義者だと 思います。 しかし 下士集団や 兵卒の 集団までが あげて 一色に 天皇主義的な イデオロギーに とらえられてしまったとは どうしても 思えない。

軍隊の 階級的な 構造は けっきょくは その 軍隊を 存立させている 社会構造と まったく 対応するものであり それを きりはなして 考えることはできない。 徴兵で かり集められた 兵隊が 市民的な 意識を もっていたり ぐうたらヤクザであったり あるいは くそまじめであったりといったように 入営以前の 生活の あり方が 軍隊に 入ってからも 兵卒としての 生活のなかに 反映していく。 例えば それは きびしい 軍律を 守る その 守り方のなかに ちゃんと でてくるわけです。 くそまじめなやつは 兵隊に とられても くそまじめに 規律を 守る。 ぐうたらヤクザは ぐうたらヤクザで どっか 抜け道を さがして 適当にやっている。 市民意識などを もっている 若い 青年たちは ブツクサブツクサ 不平を言うか あるいは それが うまいこといかんもんだから カゲにまわって こすっからいことを 考える。 こんなぐあいに みんなそれぞれ 社会における 生き方を 軍隊における 生き方のなかに もちこんじゃってるわけで とってつけたような イデオロギー的教育なんかは 実は 宣伝されるほどには 効果をあげていないんじゃないかという気が するわけです。

ぼくは 兵卒のあいだにある 自然成長的な 厭軍や 反軍とかいう 動きとか 思想、意識を あまり 過大評価するのは 危険だと 思う。 自然成長性は どこまでいったって 自然成長性なんで 軍隊でも 自殺、逃亡を 含めて そういう 事件は 毎年 たくさんあった。 数の上からいっても かなりの数に のぼると 思う。 しかし それらの 事件の すべてが そういう 意識のもとに 行なわれたんではない。 やはり「戦争はいやだ」「軍隊はいやだ」「どうしても こんなところで 生きていたくない」「それより 首くくったほうが ましだ」と 思いつめた 行動にすぎない。 ちゃんとした 意識をもって 反軍行動に 出た人は 限られた 突出部なんです。

事実、私が 名古屋の 憲兵隊に 拘留されてたときも 留置場は 逃亡兵や 官品を 横領した 兵隊やらなんやらで 大入り満員でした。 逃亡兵で ひっかけられた 兵隊の 全部と 言っていいですよね。 帰隊時間に おくれたというだけなんです。 陸軍では 帰隊時間に おくれますと「部隊会報」という 文書に 名前が 載せられて 重営倉に 入れられ 成績が 一つ 下がるわけです。 三時間以内に 帰ってきたら たんなる 営倉、何時間以上になったら 重営倉というぐあいに 懲罰令で 規定されているわけですが 飲みすぎて 時間に おくれますと「えい、めんどくさい」「どうせ 部隊会報に 載せられて 人に 後ろ指さされる 兵隊になっちまったんだから いっそのこと もう一晩 どっかで 飲んでやれ」ということになる。 つまり やぶれかぶれの 気分で 帰ってこないわけです。 それで 三日以上 帰らなかった 場合には 陸軍刑法による 逃亡罪で 憲兵隊に ひき渡されることになるんです。 みんな そういうことで 逃亡罪という 罪名を 着せられて 陸軍刑務所へ 送られていくわけなんです。

官品横領罪の 主計でも そうなんです。 員数が 合わなくて 処置に 困るような 官品を 本人にしてみれば あの きびしい 陸軍経理部の 検査に ひっかからないように 部隊の 名誉が 傷つかないようにと 思って ちょっとばかり やったことが 横領罪に 問われるわけなんです。 そういう 事例が きわめて 多いんであって それを 意識的な 厭軍、反軍にもとづく 行動と とらえることは 危険だと 思う。

それを どうするかというのは もちろん 前衛党の 問題でもありましょう。 あるいは 軍隊の 外における 反軍、反戦の 闘争との 結合の 問題でもありましょう。 けれども えてして 兵隊というのは ひどいめにあった 場合も そうでなかった 場合も 自分を 誇張して 伝えるもんです。 たとえば 軍隊における 自分の 要領のよさを 帰ってきて 吹聴する。 事実は そうでなくても 自分が たいへん 要領よく 立ち回って うまく やってきたというような 話をする。 それは ある意味では 実は そんなに 要領よくいかず ひどいめにあったことの 一つの あらわれなんですよ。 同時にまた 要領のよさというのは 兵隊から 帰って また 工場へもどる、会社づとめをする、そういう 一般社会でも 役に立つ 生活上の 教えなんですね。 だから 彼らは 要領のよさを 自分自身の 人生処世訓のようなつもりで 身にしみて 受けとって 帰ってくる。 兵隊というのは そういう 存在なんです。 その ずるさが 一番よく あらわれているのは 下士集団だと 思いますけどね。

ぼくは 将校団、下士団、兵卒集団を それぞれ 問題の 所在が 同じであっても その 階級構造によって 少しずつ ズレてくると 思う。 また そうでなきゃいけないと 思う。 昔の 軍隊を 例にとると 忠君愛国的な いわゆる 天皇イデオロギーに こりかたまっているのは やっぱり 将校団であって けっして 下士団じゃない。 もちろん 将校といったって いろいろな人が おりますから すべての人が そうだと言うわけじゃない。 しかし 陸軍、海軍をとおして 軍の 中堅幹部でもあるし 彼らが 実際に 軍隊組織を 動かしていく 権限を 与えられている。 そういう 立場にもありますから やはり この層を がっちりと 教育して イデオロギー的に ゆるぎないものにしていくことは 明治以来の 教育方針だったと 思う。 だからこそ そういう人たちは 少年時代から 幼年学校、士官学校をとおして 兵隊のいない 世界で 別に 教育するという やり方をとっている。

下士団は われわれ 兵卒仲間のなかから 食うに困った 連中 あるいは 戦争中は シャバにもどって 工場へつとめても 会社へつとめても いつ ひっぱられるか わからん、だいいち 配給物資が 少なくて はらへってしょうがない、軍隊にいりゃ まあまあだから 野戦にでも いかないかぎり 軍隊で くらしていたほうが 安全だという 連中が 下士官候補者を 志願するわけです。 志願するかぎりにおいては「おまえは りっぱな 兵隊だ」と 認められますから 本人にとっても たいへん けっこうなことで そういうようにして 下士官が 養成されていくわけです。 みずから 下士官候補に 志願しない 下士官、つまり 在営年限が 長いんで なんとなく 下士官になっちゃった -- 横井さんなんかは そうですね -- ものも ありますけれども いずれにせよ ぼくは 下士集団というのは 帝国陸軍で いちばん 始末におえない 存在だったと 思う。 要領のよさ、軍隊の 機微に 通じていること、彼らは 軍隊の そういう面を もっともよく 代表していた。 下士官を 分析することによって 現実の 軍隊が どのような 構造で どのように 機能していったかが かなり 確かめられるんじゃないか。

われわれ 兵卒集団にいたっては それこそ 一銭五厘クラスですから「早く 服役期限が 終わればいい」「まちがっても 野戦転属になりませんように」というような 気持ちで 口先だけは 勇ましく 人の 調子を 合わせて やっていく こういう 集団なんです。 下士集団と 兵卒集団のなかでは 日本の 生活の 実態が かなりはっきりと でていると 思う。

将校団の 場合は イデオロギー的、画一的な 教育と あいまって 非常に 高い 給与と 社会的な 地位、名誉が 与えられますから、つまり 軍隊によって 生活が 保証されていますから ますます 別社会を 形成してしまう。(1972年)