miscellanies

[伊藤至郎]
戦時中『鴎外論稿』を 著した 伊藤至郎は また、日本の 科学史を 研究していたが、同時期に 書かれた 徳永直の 『光をかかぐる人々』 -- それは 近代日本の 印刷技術の 歴史だが -- を その当時、どう 受け止めて いたのだろうか?
中野重治が、全集の ある うしろ書きの なかで、「伊藤至郎の死」という 自らの 文章に 短かく 触れている。 そこには 徳永直も 登場する。

ここでは、新日本文学会の 行き方に たいする 強い 批判が 徳永直、栗栖継から 出て、それは 『新日本文学』に 発表され、しかし、それへの 賛否を 徳永が 自分の 手もとに 集めようと したのに たいし、伊藤が どう 対したかを 重視して 私は 書いている。

それは 1951年の ことであり、この 4年後に 伊藤至郎は 亡くなる。

徳永は、二人の 意見に たいする 会員の 意見、回答を 徳永の ところに 集めようとした。 多くの 会員が 彼らの 意見を 素直に 徳永あてに 書いて送った。 ただ一人、伊藤至郎が、彼の 意見を -- それは 徳永あての 意見で あったが -- 会あてに 送って、会を 通して それが 徳永に とどけられることを 会に 求めた。

「小生は この あなたへの 手紙を、(その 内容について) 現在の 文学会 中央常任の 諸君にも 読んで貰いたいので、これを 最初 新日本文学会に 送り、そこから あなたの ところへ 廻して貰うことに したいと 思っています。 ですから この手紙は そんな 路を 通って 送られるものと ご承知下さい。」

事がらは 小さいことである。 伊藤以外の 人が 非難される 筋あいの ものでもない。 けれども、伊藤の すじ道が 全く 正しかったこと、人が すべて こうであったならば 事態は いっそう 順直に 進んだであろうと いうことは われわれが 今 あらためて 認めるべき ことである。

「伊藤至郎の死」(1955年)