miscellanies

中野重治は語る (平凡社ライブラリー (420))
[中野重治は語る]
日本近代文学館 主催の その 講演の なかで、中野重治三好達治の 詩と 批評に 触れている。

三好達治に なりますと、これは 日本の 軍国主義に たいする やや 深い 知識と、その上に 立った 理解と 反感とを 持っていたと 思います。 ...

戦後、彼が 「行人よ 靴いだせ」 を 書いた。-- 大阪の 昔の 繁華街が、麦畑に なって 大根の花が 咲いている。 爆撃あとは そのまま、鉄類が 赤錆びて ころがっていて、そこを アメリカの ジープが 「北し 南す」。

ぼろを さげた 連中 相手の 闇市、それから 暴力靴みがき。 それを 彼は、ただ 嘆くというのとは ちがった 屈折で 書いています。

彼は 天皇の 問題についても 書いています。

天皇、または 天皇制を、日本の 戦争、敗戦の 歴史と 民族の 運命との 関係のもとで、倫理的に どう 考えるか、考えざるを 得ないかを それは 書いています。 (1964)

それは、中野重治の 考える、三好達治を 形づくる 人格の 大事な 側面で あるのだが、これだけでは やはり わかりにくい。
その 12年後に 三好達治について 書かれた、著者の エッセイから 抜き書きし、文意を 補ってみる。

鯰といふものが ゐる

藍と 黒と 黄と 白の 色をもつ、

これも 人間に 似た 顔をして

ひげを 生やしてゐる

鯰のひげを そっと 剃ってやったら

一生 彼は 穴から 出て来ないであらう。 (室生犀星)

「鯰」 という そんな詩を 三好が どう 見たかなども あるが、戦犯の 処刑に 対して、天皇が 「何らかの 自決的な 表現を なすべきであらう。」 と 書いた 犀星を、また 「芸術院長から 再び 天皇の 陪食について 案内状が 来た」 について 再び 「ご辞退」 した 犀星を、三好が 心で どう 見たかなぞも 三好から 聞きたかったと 思う。

もともと 三好は、普通に 理屈っぽい 男だった。 理論的にと いってもいいが、道理の 感覚というへんが まっすぐで 鋭かっただろうと 思う。 ...

詩にまで 触れなくて いいが、戦後 すぐに 書いた 「なつかしい日本」 に、裸で、全力を しぼって、こまかく 丁寧に 彼は 書いていた。

その 「まえおき」 と 「一」 とを 彼は 敗戦の あくる年の 一月号の 雑誌に 書いたが、そこに、当時 いわば 流行した 新聞、雑誌記事の 「自嘲」 の 調子に 触れて、冒頭に 三好は 書いていた。 ...

「私の 耐えがたく 思う 一つの 気味合いと いうのは この 『嘲り』 である。 憤慨も 悔恨も 或は 羞恥も、それらには 常に 魂の 温度が 失われていないという点で、それらには 道徳的に いって 健康さを 失っていない。

それに くらべると 『嘲る』 心は つめたい。

自ら 嘲る -- 嘲るふりをする 心持は、つめたい 心の 上に 常に 虚偽を 意識している。

当然 憤慨すべき時、悔恨すべき時、或は 羞恥すべき時に、『自嘲』 の 影が さすというのは、もともと 根底の たしかさの 上に 立っていない、虚偽の 意識を 意味している。」

引きたい 言葉、「まえおき」 の 言葉は これ一つに しておく。 これが あっての 「なつかしい日本」 だっただろう。

そこに 立っての、「さらば 私たちは、陛下 及び その 側近者たちの 勇気と 正しい 判断とのために、私たちの 勇気と 正しい 判断とを 以て、一つの 深い 真実の 感情を 準備しながら これを 待つ --」 として、行を かえて、「陛下は 事情の ゆるす限り 速やかに 御退位になるが よろしい。」 と 書いたのだった。

そこに どんな 事情が 生じたのだったか、私は 知らない (注)。 ただ そこで 二年間 これが 切れた。 それから 二年して もう一度 続きが 書かれた。 ...

こうして 彼は さまざまのもの、社会評論とか、その種の エッセイとか いうものを 書いた。

それを 三好は 全身の 力で 書いた。 詩を 書くのと 全く 同じに それを 書いたと 私は いいたい。 詩の 註釈を 書くのと 全く 同じに それを 書いたとも いいたい。 ...

その すべてが、彼の 道理の 感覚に 結びついていたこと、道理の 感覚 そのものだったことを よく 知りたい。 そこは 面倒な 話であり、全く 面倒でない 話でも あることを (彼の 詩を 読む) 子供たちに 知ってほしくなる。 (1976)

では、三好達治は こうした 感覚 -- 指向と いっても いいが -- を 最後まで 持ちつづけ得たのか? そして、彼の 戦争詩のこと ...
(この項 続く)
(注) それは、発表された 雑誌が 『新潮』 だったからだろう。

あの頃 (1940年前後)、詩の発表で こんなことが ありました。

『新潮』 の 編集者に 会って、ぼくの これを 出さないかと いうと、この人が ちょっと 出しかねると いう。 それで ぼくが どのへんまで いいかを いっぺん トライしてみたら どうかって いうと、そういう 危いことを 勧める人は 困ると 言うんですね。 ...

(それから) ぼくは 戦争になる 少し前、高村光太郎とか、三好達治とか、萩原朔太郎も 新聞の 批評欄で こっぴどく やっつけたことが ありました。 もちろん 本名 (金子保和) で。 そういうことが 最近の 詩壇には なくなりましたね。

金子光晴