miscellanies

[Murderous Army]

インドネシアを 救うためには、それ -- スカルノ体制 -- を 撲滅しなければならない」 これは 第二次世界大戦中、ナチスや 日本人に 対し、無差別爆撃を 実行したとき 繰り返し 採用した 論法である。

また これは、第2次世界大戦で ペンタゴンワルシャワ以後、2番目の 規模で マニラを 爆撃、市街を 壊滅させたときに 使われた 論法でもあり、その 結果 (マニラ市民) 10万人以上が 死亡した。

マリオ・サントス

http://www4.kcn.ne.jp/~yoitiro/hatena/cyrano/massacre.2.html
1945年 2月、マッカーサー軍は 首都 マニラへの 本格的攻撃に 突入し、空爆の 結果、市街の 約 8割が 完全に 破壊される。
では、U.S.A. による 占領までの 3週間、当時 マニラに 駐屯していた 日本軍 陸戦隊 約 1万8000名は 市民に 対し どのような 行為に 及んだのか。
ヤン・M・プルヴィーア著 『東南アジア現代史』 から 引用してみる。

(それは) 東南アジアにおける 日本という 存在の 身の毛も よだつ 終局であった。

孤立し、米軍と フク団とによって 包囲された 日本軍は、家屋を 焼き払い、略奪し、手当たり次第に 婦女に 暴行し、大量虐殺を 行ないながら、パング川 南方の 地域へと 後退した。

たとえば、病院の 1つが 襲われ、医者と 患者とが 殺された。 サンチャゴ要塞では、約 700名の 抑留者が 生きながら 焼き殺された。 そして その他 (にも) 数多くの 大量虐殺が 行なわれた。

太平洋戦争 末期の フィリピンというと、1944年、レイテ島での 飢餓行軍の 取り上げられることが 多いが、虐殺は その わずか 数ヵ月後に 実行されている。
判明しただけで、1月 足らずの うちに 日本軍に 殺害された マニラ市民の 数は 5000 から 7000人に 及んだ。