miscellanies

対論 言語学が輝いていた時代
これは 田中克彦鈴木孝夫を ホストに 迎えて、文献では とらえにくい 戦後日本の 言語学の 流れを 内側から 引き出そうとした 対談だ。
学術論文では ないので その 発言内容に 厳密な 正確さを 求めることは できないが、それでも 粗雑に すぎる 発言が 目立つ。

ところが インドネシア語には それ -- 言語要素としての 抽象語彙 -- が 少ないんです。 もっと かわいそうなのが フィリピン。 フィリピンには 地理的な 理由で 中国文明が 来なかった。 イスラーム文明も ミンダナオ島までしか 来なかった。 だから 古代のまま 近代になって、簡単に スペイン、アメリカの 植民地に なってしまった。 だから フィリピンは いまでも 外来文明に 対する 土着の 言語力が 弱いのです。

(なぜ 日本語には 漢語が 必要なのか)

マレー半島インドネシア および フィリピンは 1つの 大きな 言語圏に 属する (太平洋の 島々は また 別の 言語圏を 構成している)。
この 対談の 中でも 名前の あげられた 村山七郎に よれば、原日本語には こうした 地域からの -- 文法も 含めて -- 影響の 痕跡が 認められると いう。 おそらく それは 旧石器時代 後期の ことだが、そこに 住む 人々の 言葉が 日本語 誕生の 母体と なったことに まちがいは ないだろう。
そして、インドネシア語や フィリピン語の 「悲劇」 は 別に ある。 それは U.S.A. の 存在だ。
インドネシアでは インドネシア語の 確立は 独立運動と 並行して 進んだ。 それは ぼくたちの 知る、例えば 東ヨーロッパの 経験とは 異なるものだ。

1928年に、インドネシアの 青年たちは 第1回 全国インドネシア青年会議を バンドンで ひらき、「1つの 祖国・インドネシア共和国、1つの 民族・インドネシア民族、1つの 言葉・インドネシア語」 の 誓いを 立てた。 この 会議には ハック、アリシャフバナ、スカルノなど、20代に はいったばかりの 民族運動の 活動家、詩人、俳優などが 参加している。 このように、インドネシアは 国として 政治的に 独立する 前に インドネシア語が 独立したという 独特の 歴史を もっている。

インドネシアでは、公式には 69、種族語まで いれると さらに 多くの 言語が 話されているが、インドネシアの 国語と されたのは ジャワ島で 用いられていた 言葉では なく、スマトラマラッカ海峡沿いの 地域で イスラム商人によって 使われていた 貿易語、マライ語で あった。

高良留美

鈴木孝夫は 留学当時、言語学の 世界が あまりに プラグマティックな ことに 反発を おぼえて 別の 進路を 選択したと 語っているが、にもかかわらず U.S.A. が 国家として もつ その 言語政策からは 自由では なかったようだ。