web archive

[Yasmine Farhang] A comment on Seth Wessler's blog (Persepolis)
http://www.racewire.org/archives/2008/01/persepolis_a_stunning_odyssey.html#comments
紹介したことだし、訳してみます。 残りは 明日 ? でも ...

私は まだ この映画を 見ていないのだが (テキサスの オースチンに 次に 寄るのは パリと ニューヨークの 後かな?) Satrapi の グラフィックノベルは 幾度も 読んだ。 そして Wessler によって 書かれたものが Persepolis I と II の 映像への 転換を まったく 抜かりなく 扱っていて、それは 器用で 詩的に 触れた (だけの) 一片の 書きものでは ないと 思う。 それでも 私は、Wessler が 端折って 書いた 最後の 2つの パラグラフの 意見に 1組の コメントを つけ加えてみようと 思う。


「だが Marjane を 取り巻く (家族の) 性格描写は 同じ 扱いでは 描かれていない。 彼らは これらの 民衆のうちに 含まれない。 当然 どんな ストーリーで あっても、おそらく 特に アニメーションに おいては 単純化が 必要だ。 典型を 用いなければ 私たちは なにも できない。 なぜなら、概して それは 私たちが この世界を どう 理解しているかと いうことだから。 しかし、こうした 典型が 西側と 東側、宗教と 世俗、そして 教育ある エリートと 無学な 貧民で あるとき、このような 二分化した 描写は 危険であり、彼らは ステレオタイプに なってしまう」

イスラム国家が アゴヒゲの、浅黒い、銃を もった 労働者階級の 男性で 表現され、Marjane 自身の 家族が 「西側の」 服装で 現われるのは 取るに足らない ことでは ない。 それから 私は、北米の 観客が こうした イメージから、彼らが すでに イランに 関し 聞いたことの あるものとして 受け取るだろうと 危(あやう)んでいる。 ストーリーが 悪いと いうのでなく むしろ、まったくのところ 革命後の イランで 多くの 人々の 実際の 経験には まさに こうした 性格描写が ありそうだ。 この映画が 必ずしも なにか 違ったことを しようと している わけではない。 しかし 私が 期待するのは、この映画を 見る 人々が 彼女の 開放的な その 周囲より、むしろ Marjane の critical messiness を それとともに 受け取ることだ」


確かに これは 価値のある 意見だ。 そして それは 十分 なされていると 思う (この映画から 彼女の 開放的な 周囲より むしろ、Satrapi の critical messiness を 受け取るという 記述は 特に 楽しい)。 だが その 受け取り方は おそらく まだ ほんの少し 単純にすぎる。 私の 最初の 反応だが -- 北米の 観客のことは 次まで 忘れておいて -- 西側の 大多数と (最初の 観客が フランスだったように)、イランの 人々が (彼らは フランス、ドイツ、カナダ そして 特に U.S. に 住んでいる) ムスリムを 自らの 利益のために 操(あやつ)る 「アゴヒゲの 律法学者たち」 に 関した 非難の コメントを 一斉に することに なるかに ついては 少々 疑問だ。 無論、これは 特別な イラン人 移民層の ことで あって、 (イランに 住む 大多数が) その 子どもを 離れた ヨーロッパ、カナダ そして U.S. に 送ることの できた 人々と 仲たがい しているとまでは いえない -- ただ、こうした 感情が あるという 事実は 無視できないが。

さらに 現実に イランに 住む 人々のなかで、男性が アゴヒゲを 生やし、女性が 部分的に hijab style で あるのは、単に 美感や 宗教に 関係すると いうより、ずっと 大きな 目的 -- それは 政治的な ものだ -- に 適(かな)っている。 それは 多くの 場合、同じ 市民であることの 評価として 使われ 政治的な 立場を 指し示すものと なる。

また、西側の 観客が 「フム ... そうか、まったく 思ったとおりだ -- ここ 西側で われわれが もつ 自由への (彼らの) 願望を 象徴する、主役である 家族の 欧米化された 外観に 比べて、アゴヒゲの 狂信者たちを 見てみろ」 と いうだろうことを 私は 疑わない。 私は そこに 少しだけ くい違いが あるのでは ないかと 思う。 たとえ Marjane の 映画には 人々の 複雑な 状況は 述べられて いないとしても (彼女の 家族は イランの 典型とは なり得ないし、悪いことに 観客の 多くは そう 思い込みそうだが) その 性格描写が 現実的な 表現では ないと 示唆されているのなら、いい変えれば この映画は (その内容にあった)「性格描写」を つくりあげている。

おそらく Wessler の 懸念は、これらの 男性で イスラムを 表現しようと しているというより むしろ、「イスラム国家が アゴヒゲの、浅黒い、労働者階級の 男性によって 表現されている」 という 事実の ほうに ある。 (それが) イスラムを 彼らの 見せかけのため 用いる 国家と、ムスリム自身との 間で 矛盾が つくられることの 重要性で あるとするなら、イランの 人民は さまざまな そして 魅力的な やり方で (イスラムを) 解釈してるのだと (Marjane の 神や マルクスとの 関係を 参照のこと) 私は 考えているのだ。