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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

このような 活動に 固有な 転落の 危険は、ゲリラ集団が 民衆運動から 孤立するや 否や 一つの 絶対的 確信となる。 続く 1906年の 時期、労働者の 運動が 下降線を たどり 打ち続く (敵の) ボディブローに 革命家が よろめいた時、ゲリラ集団は ますます 革命政党を 補助する 機関として 役だたなくなり、彼らは 山師の集団 あるいは さらに より 悪いものに 変化する 兆候を 現わした。 彼が なおも 革命運動の 復活を 予期していた時、反動に 対抗する 後衛活動の 一種としての ゲリラ戦術の 可能性を 弁護する 一方、同時にまた レーニンは 「アナキズム、ブランキ主義、旧式の テロリズム、労働者を 混乱させ 住民の 幅広い 階層を 破壊し 革命を 損なう 民衆から 孤立した 個人主義的 行為」に 対し 警告した。 そして さらに つけ加える、「こうした 評価を 支持する 例は、日々の 新聞で 報道される 事件のなかに 容易に 見いだされる」 と。

1905-6年の 時期、革命運動は パルチザン支隊、武器の 没収、武装闘争の その他の 形態を ともなう 「ゲリラ戦争」の 要素を 含めた。 だが この 戦闘分隊は つねに 労働者の 組織と しっかり 結びついた。 こうして モスクワの 軍事委員会では RSDLD (ロシア社会民主党) でなく SR (社会革命党)、労働組合員 (印刷工) および 学生が 占めていた。 われわれが 知るように、パルチザン集団は ボグロム (大量虐殺) や 黒百人組からの 防衛目的のため 役だてられた。 また 彼らは 集会を 警察の 襲撃から 防御するよう 援助した。 そこでは しばしば 武装労働者の 支援による 出席が (敵の) 暴力を 防ぐ 重要な 要因と なった。

(彼らの) その他の 任務には 武器の 捕獲、スパイや 警察の 手先の 暗殺 そして 資金のための 銀行襲撃も また 含まれた。 このような ゲリラ集団を つくりあげる イニシアティブは しばしば 労働者自身によって とられた。 Bolshevik は 明確な 行動計画によって 彼らを 組織、訓練、指令することで これらの 集団の 指導権の 獲得に 努めた。 当然、ここでは これらのことは 重大な 危険を ともなった。 あらゆる 種類の 山師、落後者 そして いかがわしい 分子が こうした 集団を 混乱させることが 可能だった。 そして ひとたび 民衆運動から 孤立すれば、その 性格は 犯罪的方法に 沿ったものへと 転落しがちであり、そこでは 彼らは 単なる 強盗集団と 区別が つかなくなった。

これに 加えて、彼らは また 挑発による 滲透を 受けやすかった。 一般に、たとえ 後者が 滲透からの 影響を 免れないとしても、国家の 手先どもによる 軍国主義的な テロリスト組織が 滲透するほうが、とりわけ 互いに 強い イデオロギーによる 繋がりで 結ばれ 訓練された 幹部から なる 本来の 革命政党 (の それ) より はるかに 容易だ。 レーニンは 軍事集団の 存在により ひき起こされる 転落の 危険に 十分 気づいていた。 党組織と 経験を つんだ 幹部による 厳格な 規律と 堅固な 統制とが そうした 傾向に 部分的に 警告を 発した。 だが 唯一、現実的な 統制は 革命的 民衆運動に よるものだった。