web archive

[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

1919年 1月、ベルリンにおいて ローザ・ルクセンブルグと カール・リープクネヒトを 捕らえた ユンケルたちも また、彼らを 法廷に 差し出すことを 認めるつもりは 少しも なかった。 彼らは (2人の) 頭を 打ち砕く前に 法律書は 調べなかった。 Che Guevara は 近くの La Higuera 村の 荒れはてた 校舎に 引きたてられ、そこで 一晩 捕虜として 拘束された。 ただ 一人、餓えた 狼のなかの 仔羊のように、この世界、彼の家族、友人 そして 同志から 一人 孤立し、威圧のなか 免れない 死と 向きあった、この 最後の 悲惨な 夜に、彼の 心の中を どんな 思いが 駆け抜けなければ ならなかったのか!

次の日の 午後 はやく、Che Guevara は 校舎から 引き出された。 1967年 10月 9日の 午後 1時 10分、彼は ボリビア軍の 軍曹、Mario Teran によって 処刑された。 彼が 冷酷に 射殺された 事実を 隠そうとする 企ての 1つとして、戦闘での 負傷を 装うために 彼は 多数の 銃弾を その 足に 受けた。 この (処刑の) 前、彼は 処刑者に 語った、「おまえが ここで 私を 殺すのは わかっている。 撃て、臆病者。 おまえは 人を 一人 殺そうと するだけだ」。 これが 実際の Che Guevara の 最後の 声であり 臆病者として 命乞いを したのではない。

その 遺体は ヘリコプターの landing skids に 縛りつけられ 近くの Vallegrande まで 空輸された。 そこで その地の 病院の 洗濯漕のなかに 置かれ、写真を とる 報道諸君のため 展示に 供された。 1人の 軍医が 彼の 両手を 手術により 切断するという 死を 冒涜する 恐ろしい 行為のなか、ボリビア軍 将校は Guevara の 死体を 人知れぬ 場所に 移動した。

Guevara 探索を 指揮した 男は、CIA の 手先で、Bay of Pigs 侵略と 時を 同じくして 反 Castro 暴動を 準備するため キューバに 侵入したことのある Felix Rodriguez だった。 Rodriguez は ワシントンと バージニアの 彼の 飼い主たちに Che の 死を 知らせた。 卑しい 盗人のように、彼は Che の ロレックスの 腕時計や 故人の 品々を もち去り、記者たちに 彼の 手柄を 自慢するのに 見せるため 使った。 Felix Rodriguez の 名は 歴史の 年代記に 悪名の 極印を 押され 記されるだろう。 しかし、彼に 残忍に 殺害された 人間の 思い出は、貧しく 虐げられた (人々の) 守護者、戦士、革命の 英雄 そして 世界の 社会主義運動の 殉教者として 永遠に 生きるだろう。

ゲリラ戦争の 課題

他の 人と 同じく、Che は 強い面と 弱い面を もっていた。 ゲリラ戦争の キューバでの 方式を 一般に 適用する 戦術として 示すことを 試みたとき、彼は 疑う余地なく 誤りを おかした。 マルクス主義者たちは 常に 農民の 闘いを、権力に 抵抗する 労働者たちの 援軍として 考えてきた。 この 見解は 最初、1848年の ドイツ革命を 通じて マルクスにより つくりだされた。 その時 彼は、ドイツ革命は ドイツ農民戦争の 再来としてのみ 大勝利が 得られると 論じた。 それは 都市における 労働者の 運動は その 背後に 農民民衆を 引き寄せなければ ならなかったのだと いうべきだ。