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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

ソビエト連邦の 影響が キューバで 増大してくると 彼の 官僚主義に 対する 言葉と ソビエト連邦への 批評は さらに 一層 あからさまに なっていった。 おおむね 彼は ソビエト連邦への 疑いを 増すように なった。 彼は 公然と モスクワの 植民地革命への 裏切りを 非難した。 1965年 2月、Che は 彼の 国際舞台での 最後の 公式の 出席と なった アルジェの Afro-Asian Solidarity に 参加し 演説した。 この 演説の 中で 彼は 述べている、

「この 命がけの 闘争に 国境は ない。 われわれは 世界の どんな 場所で 起きた (闘争であれ それを) 前にして 無関心を よそおうことは できない。 帝国主義に 対する どの 国の 勝利で あっても (それは) われわれの 勝利だ、ちょうど どんな 国の 敗北も われわれの 敗北で あるように」。 彼は 続けて いう、「社会主義国家には 西側の 搾取国家と 彼らとの 暗黙の 共謀を 清算する 道徳的義務が ある」と。

これは モスクワによって 遂行された 平和共存政策への 非常に 明確な 非難だ。 彼は Castro との 協議なしに キューバ領から ソビエトミサイルを 撤去したことを 裏切りと みなした。 彼は ベトナム人民の US 帝国主義に 対する 自由への 闘いを 熱烈に 支持した。 彼は 他の 国々の 圧迫された 人々に 武器を 取り 「100 の ベトナム」を つくりだすよう 求めた。 こうした 演説は フルシチョフや モスクワの 官僚主義(者) を おびえさせた。

彼の 心の中に 徐々に キューバ革命を 救い出す 唯一の 方法は 世界中で 革命を 展開すべきだと いう 考えが 成熟していった。 この 考えは 本質的に 正しかった。 キューバ革命の 孤立が (そのまま) その 生き残りへの 最大の 脅威だった。 Che は 考えを 論文に 書き留めておく (タイプの) 人間では なかった。 彼は 行動に 移すことを 決心した。 Che Guevara は 1965年、アフリカでの 革命闘争に 参加するため キューバを 後にした。 次の 2年間の 彼の 居所は 詳細には 依然 秘密に されたままだが、彼は 最初 コンゴ - キンシャサに おもむいた。

彼は ある 手紙の 中で キューバ革命と 彼の 連帯を 再認識したと 書き、しかし 革命運動のため 国外で 闘うべく キューバを 去るという 彼の 意志を 明かした。 彼は 述べている、「世界の 他の 国々が 私に 少しばかりの 努力を 求めている」と。 そして 彼は 「新しい 戦場へ」 おもむき 1人の ゲリラとして 闘うことを 決心した。 キューバ政府を 窮地に 追いつめず また 帝国主義者たちに キューバを 攻撃する 口実を 与えないため、彼は 政府、党、軍隊での すべての 彼の 地位からの 辞職を 表明し 1959年に 革命への その 功労により 認められた 彼の キューバの 市民権を 放棄した。