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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

「無差別虐殺は 6月 はじめの 日々まで、即決による 処刑は その月の 中頃まで 続いた。 長期にわたる (数々の) 得体の知れない 芝居が Bois de Boulogne で 演じられた。 この 血なまぐさい 7日間の 正確な 犠牲者の 数は けっして わからないだろう。 軍事裁判の 長は 17,000 の 射殺を 認め、パリ市会は 17,000 分の 埋葬費を 支払った。 だが 膨大な 数が パリ以外で 殺され あるいは 焼かれた。 少なくとも 20,000 (という 数は) 誇張では ない」

「多くの 戦場では ずっと 多くの 数が 数えられる。 だが (それは) 激しい 戦闘の うちに 倒れたのだ。 今世紀、戦闘後の このような 大虐殺を 目のあたりに することは なかった。 われわれ (フランスの) 内乱の 歴史において これに 匹敵するものは ない。 聖バーソロミューの日、1848年の 6月、2度目の 12月は この 5月の 虐殺 (と 比べれば) ほんの エピソードに なってしまったようだ。 ローマや 現代の 偉大な 死刑執行人でさえ the Duke of Magenda の 前に 色を 失う。 アジアからの 征服者、ダホメの 祝祭の 大虐殺の 犠牲者だけが この プロレタリアートの 虐殺を いくらか 想像させる」

より 多くの 最近の 実例が ある。 民主的に 選ばれた Arbenz 政府を 打倒した 後、グァテマラの 支配者は CIA の 援助により 自国の 人民に 対する 血まみれの 民族大虐殺の 戦いを ほしいままに した。 Pinochet は 数万を 殺害し 拷問に かけた。 アルゼンチンには クーデタ後の 政府のもと さらに 大きな 虐殺者が いた。 キューバの 場合、U.S.A. の カイライである Batista は 数えきれない 反対派 (の 人々を) 殺害し 拷問に かけた。

これは すべて まぎれもない 事実だ。 U.S.A. や ヨーロッパ連合の いわゆる 民主主義の 支持者たちは キューバ革命が その 敵に 向けた 革命的暴力に 衝撃を 受けた ポーズを とった。 だが その 同じ 人々には US 帝国主義の 友人である 反革命 暴君たちの 犯罪は 見ないふりを する 用意が あった。 フランクリン D ルーズベルト大統領が ニカラグアの 独裁者 Somoza について 語ったように、「彼は S.O.B. (ケダモノ) だ。 だが 彼は われわれの (飼っている) S.O.B. だ」と。

The Bay of Pigs

ブルジョアジーは 現実の、そして 階級という 見地から この 暴力という 問題と とり組む。 労働者階級も また そうすべきだ。 階級の 敵を モラルの お説教を 彼らが 理解することで 敗北させることが 可能だという 考えは 素朴で バカげている。 キューバの (そして ロシアの) 革命に 対する モラルの 欠除だという 偽善的な 金切り声にとって ほんとうの 理由は、最後に 奴隷たちが 奴隷所有者に 対して 反抗し、彼らが 勝利したという 点に ある。