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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

当然、(ロシアの) 遅れた 条件下では 多くの 例外が 生じなければ ならなかったし、そこでは パリ・コミューン 以来の 原則が くり返し 表われた。 ブルジョアジー 「専門家」(spetsy) が ソビエト国家のため 働くよう 説得するには、非常に 高額の 報酬を 支払う 必要があった。 こうした 措置は 労働者階級が 自らの 知識層を つくりだすまでは 必要だった。 加えて、特別に 「労働者を 刺激する」(ための) 賃金が 工場や 事務労働者の かなりの 部門で 支払われる、等々。

だが、こうした 妥協は 共産主義者 (党員) へ 適用されなかった。 彼らは 熟練労働者より 以上 受け取ることが 厳格に 禁じられていた。 その 数値 以上に 彼らが 受け取った どんな 収入も、すべて 党に 収めなければ ならなかった。 人民代表者会議の 議長で、熟練労働者の 所得に 匹敵する 500 ルーブルを 受け取った。 1918年 5月、会議事務局長の V.D. Bonch-Bruevich が レーニンに 多額 (の給与) を 支払った 際、彼は レーニンから 昇給分は 「違法」 だと いわれ 「厳しい叱責」 を 受けた。

革命が 孤立していて ブルジョアジー専門家と 技術者とが 必要なため、こうした 労働者への 賃金格差は 増加した -- 彼らは 政府メンバーの 受け取る それより 50 パーセント増の 報酬を 得ることが できた。 レーニンは これを 「ブルジョアジーの特権」 と 公然と 非難して できる限り すみやかに 縮少すべきだった。

理論だけでなく 実際上でも Che は 同じ 革命の 原則を 堅持していた。

Che 対 スターリン主義

Che Guevara は 生来の 革命家だった。 彼は 個人への ワイロを 受けつけず、官僚主義、立身出世 そして 特権を 忌み嫌った。 革命戦士の 厳格な モラルを 彼は もっていた。 そのため 彼は、革命の 勝利の 後に 認められた 官僚主義や ゴキゲン取りの 現われには 反感を いだいた。

Che は ニキータ・フルシチョフの 下での ソビエト連邦 共産党の 公式見解に 反対する 意見を 述べた。 彼は 平和共存という 「理論」 に 反対だった。 モスクワや そのイデオロギーに 対する 一部 キューバ人の 卑屈な 態度を 彼は 嫌った。 とりわけ 官僚主義、立身出世 そして 特権は 彼に 反感を 与えた。 彼の ロシアと 東ヨーロッパの 訪問は 彼に 衝撃を 与え、スターリン主義に 対する 彼の 幻滅の 意識を 深くした。 官僚主義、特権 および 息苦しい 体制への 順応は 心の 奥底から 彼に 反感を 与えた。