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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

これらの 条件は レーニンの 気まぐれや 自分かってな 考えでは なかった。 国家の 計画経済では 産業、社会 および 国家の 運営に、民衆の 最大限の 参加を 確保することが 絶対に 必要だ。 それなしには 官僚主義汚職、運営の 失敗へと 向かう 傾向は 避けられないだろう。 こうしたことが 結局は 計画経済を 内側から 堀り崩し 破壊してしまう。 これは まさに USSR で 起こったことだ。 レーニンにより 唱えられた この主張が、キューバでの 出来事と Che 自身の 発展とに 1つの 重要な 意味を もつ。

革命(政府の) 大臣

Che は 革命政府の さまざまな ポストで 席を 占めた。 彼は 国立の 農業改革研究機関で 働いた。 そして キューバ国立銀行の 総裁であり、そのとき 彼は banknote へ 彼の ニックネームである "Che" と 署名した。 この すべての期間、Che は 官庁での 公務員給与を 拒み、軍の Comandante としての わずかな 賃金のみを 受け取った。

この ささいな ことが この人物についての 多くを われわれに 伝える。 彼は 「革命の模範」 を 示そうと そうすることを 続けた。 事実、彼は レーニンが 『国家と革命』 において 規定した 原則、すなわち ソビエトの 官吏は 熟練労働者より 高い 給与を 受け取るべきでは ないと いうことに 厳密に 従っていた。 そのことが 反・官僚主義の 1つの 尺度だった。 レーニンは、マルクスのように、国家 それ自身が 社会の 上層に 持ち上がる 危険性を よく 知っていた。 しかも この危険性は 労働者国家にも また 存在した。

マルクスエンゲルスによる パリ・コミューンの 分析を 発展させた 彼の 主張どおり、われわれが すでに 上で 言及したように、レーニンは 1919年、労働者国家の 中の 官僚主義と 闘うための 4つの 解決策を 提議した。

「われわれは 国家の 官僚の 役割を 減少するように なるだろう」 レーニンは 書いている、「そこでは (彼らは) 免職でき 『foremen と 会計士』 の ささやかな 賃金で (もちろん、すべての 種類、形式、程度での 専門の 援助を することで) われわれの 命令を 責任をもって 遂行するだけだ」

「これが、われわれ プロレタリアートの 仕事だ。 これが われわれが プロレタリアート革命を 成し遂げるため 何が できるのか、何から 始めるべきかと いうことだ」 (Lenin Collective Works, vol 25, p 431)

最初の 数か月間、ソビエトの 規定では (レーニン自身を 含め) 人民委員の 給与は、一般市民に 対し 最低生活水準賃金の わずか 2倍だった。 次の 数年間に 物価と ルーブルの 価値は 急激に 変化し、続いて 賃金が 修正された。 時おり 価格は、10万 そして 100万 ルーブルと、まったく 驚くべきものに なった。 だが たとえ こうした 状況の 下でも、レーニンは 国家機構の 最低と 最高の 給与の 比率が 決められた 限度を 越えないことを 確認した -- 彼の 生存中は 明らかに、その賃金格差が 1 対 5 より 大きくなることは けっして なかった。