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[Ernest Che Guevara]
その 死から 40年 (続き)

これは、スターリン主義下 ロシアの 官僚による 全体主義体制 -- そこでは 国家は 社会上部に 存在する 巨大な 抑圧力だった -- とは 絶対に なんの 関係も もたない。 「独裁」 という 言葉にしても マルクスが 活動した 時代と、今日 それに もたせる ものとは まったく 違った 裏側の 意味を もっていた。 スターリンヒトラームッソリーニフランコ それに ピノチェットを 経験した 後、独裁という 言葉は 強制収容所ゲシュタポ そして KGB を 意味している。 だが 実際には マルクスは ローマ共和制下での 独裁という 考えを もち、そこでは 国家が 非常事態 (通常は 戦時) に あるとき、平時の 民主制の 機能を 一時 停止して、1人の 独裁者が 暫定期間、例外的に 権力を もって 統治する。

パリ・コミューンは、全体主義の バケモノで あるどころか、民衆の 政権の 非常に 民主的な 形態だった。 それは エンゲルスの 表現に よれば、消滅が 予定されるよう 組まれた 国家、半 - 国家だった。 レーニンと Volshevik は 10月革命の 後、同様の 方針に よって ソビエト国家を つくりあげた。 労働者は ソビエトを 通して 権力に つき、それは かつて 考えられた 最も 民主的な 民衆代議制の 機関だった。

ロシアの 厳しい 逆境の 状況にも かかわらず 労働者階級は 民主的権利を 享受した。 1919年の 党の プログラムは 「すべての 働く 民衆は 例外なく 国家行政の 仕事の 一部に つくよう 導かれねば ならない」 と 明らかに 述べた。 その計画経済の 方針は おもに 労働組合の 手に なることに なった。 この文書は すぐさま 世界の おもな 言語に 翻訳され 広く 配布された。 だが 1936年の 粛清の 時代、それは 直ちに 危険文書と みなされ、すべての その 複製は こっそりと USSR の すべての 図書館と 書店から 取り除かれた。

他の 勢力による、労働者階級が 主役を 演じない、どんな 革命に おいても、確実に (推移の) 流動性は 避けられないだろう。 国家は 常に 他の 人々の 上に そびえ立つ 傾向を もち、また 最も 献身的な 人々が 買収され ある状況下で 民衆との 接点を 失う 可能性を もつ。 これが、なぜ レーニンが 労働者権力のための 彼の 有名な 4つの 条件を 考察したか、と いうことだ。

1) すべての 公務員の 免職権を 含む 自由で 民主的な 選挙を。
2) 官吏 (の報酬) は 熟練労働者の 賃金を 越えてはならない。
3) 常備軍では なく 武装した 人民を。
4) (労働者の) 誰もが 社会を 動かす すべての 仕事に 順次、携わるよう (誰もが 公務に つけば、誰も 官吏で なくなる)。